湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


21.嘆きのクールビズ

第一話:深まる悩み

すっかり過ごしやすい季節になりまして、まわりを見渡してみても、街を歩いていても、自慢じゃありませんがクールビズで過ごしているのはボクだけです。

ボクはめっぽう寒さに強く、上着なんてまったく着る気になれないのですが、どうしたことか世間の人は季節に敏感で、何か決め事でもあるかのように秋になると上着を着て、気の早い人になるとコートを着ている人もいたりします。

コートにマフラーをした人と、クールビズのボクが並ぶと、まるで北国に出張して寒さに耐えていたビジネスマンと、南の島でバカンスを楽しんでいた遊び人が、偶然成田空港で出会ったような、そんな貴重なツーショットが出来上がってしまいます。

別に回りの目なんて気にせずに、ずっとクールビズで通してしまえばいいのですが、そこはバランス感覚豊かな天秤座ですから、どうにか上着を着てまわりの人を安心させたいとは思っています。しかしなかなか決心がつかず、先延ばしにしているのが現状です。

今はまだいいのですが、これが11月になると、会う人ごとに「寒くないの」と聞かれるようになり、12月になると目をそらされるようになります。

秋が深まるにつれボクの悩みも深まるというわけです。

第二話:江戸っ子おやじか浜っ子ギャルか

クールビズの悩みは日増しに深刻になるばかりで、朝のテレビで「北日本では雪になるかもしれません」なんて言われると、いくらなんでも今日はクールビズではまずいかなと思いはするのですが、やっぱり着ないではいられないのです。

先日、思い余って行きつけのおでん屋のおやじにこの悩みを打ち明けました。

そこのおやじは物静かな江戸っ子で、一本筋の通った昔気質の職人風で、きっとボクの悩みを聞いて、静かに笑ってくれるに違いありません。

ボクも最初のうちはチクワをつつきながら「秋になっても上着を着る気にならないよ」とボソボソと悩みを打ち明けていたのですが、酒が回ってくると次第に雄弁になり、「悩み」が「訴え」へと変わり、クールビズの有用性と恒常化について熱く理想を語るようになりました。

静かにボクの悩みと訴えを聞いていたおやじは、話がひと段落すると「ふ~ん」と気のない返事をしてから、「秋なんだから上着を着ればいいじゃん」と続けました。

ボクは耳を疑いました。「着ればいいじゃん」なんて、頑固な江戸っ子おやじの言葉ではありません。浜っ子ギャルの言葉です。それに浜っ子ギャルに言われたのならそれはそれでちょっといい感じですが、テカテカに脂ぎったおやじに言われると、絶望の渕へと追いやられたような気持ちになります。

ボクは傷ついて店を飛び出し、駅に向かって全速力で走りました。

第三話:商店街の小さな明かり

長い商店街を絶望しながら走っていると、暗闇の中に小さな明かりが灯っているのが見えました。この商店街には、夜になると小さなテーブルを出しただけの占いの店がよく出ているので、きっとあれもそうだろうと思い、ボクは走るのをやめゆっくりとその明かりに向かって歩きました。

近づいてみるとその占い師はかなりの老人のようで、薄暗い中で占いの本らしきものを読んでいました。その横顔には長い人生を物語るように深いシワが刻まれていて、穏やかな表情をしていました。その物静かな横顔を見ていると、なんだか小さなことに悩んでいる自分が滑稽に思えてきました。

ボクは読書のじゃまをしないように、しばらくその老占い師の姿を眺めていました。すると老占い師は気配を察したのか顔を上げ、驚いたようにボクを見ました。

もちろんボクは老占い師を驚かせるつもりはないし、読書のじゃまをする気もありません。ただあまりに老占い師の表情が穏やかだったので、つい見とれてしまっていただけなのです。ボクはその思いを告げて老人に謝ろうと、心から親愛の気持ちを込めて話しかけようとしました。

ところがその老占い師は、見た目とはまったく違うスピーディ-な動きで飛び跳ねるように立ち上がると、意地悪くボクを指差し「秋なんだから上着を着ればいいじゃん」と言い放つと、襟を立て首をすくめるような格好をして、さも寒そうなポーズをしてみせたのです。

ボクはまた全速力で走り出しました。あれじゃあまるでイジメっ子じゃないですか。もう涙で前が見えません。

第四話:冬の小樽からの刺客

振り向きもせずに走り続けて駅に着きました。まだ時間が早かったので、駅前にはまだたくさんの人が居て、いくつかのグループが盛り上がっていました。

きっとみんなボクの悪口を言って盛り上がっているに違いありません。流行に敏感な若い女性のグループは「なに、あの格好、もう選挙も終わったのにクールビズなんて、上着を着ればいいじゃん」と、ボクのこだわりを流行おくれ呼ばわりしているに違いありません。あの上品そうなおばさんのグループだって「あらやだわ、見てるだけでこっちまで寒くなっちゃう、上着を着ればいいじゃん」と現実的視点からボクを非難していることでしょう。

ボクはうなだれて駅に入ろうとしました。すると後から弱々しい声で「あのう、すいません」という男の声がしたので、振り向いてみると、そこにはなんとトレンチコートを着てマフラーをした男が立っていました。その男の格好ときたら、どう見ても冬の小樽の雪景色の中から抜け出してきたとしか思えないような重装備でした。

これはまさしく敵だと思いました。それもかなりの強敵のようで、着膨れしたトレンチコートの襟まで立てていました。ボクはどうせこの男に関わってもろくなことにはならないと思い、彼を無視して改札の方に向かいました。すると男はボクのクールビズの背中をつかみ、「ちょっ、ちょっと待って下さいよ」とまた弱々しい声でボクを引きとめ、今度は少し強めの口調で「あなたは何年目なんですか」と聞いてきました。

ボクはちょっと戸惑いました。男は確かに「何年目なんですか」と言ったのですが、なんのことだか、何が何年目なのか、さっぱり検討がつきませんでした。

最終話:ついに変わり者対決

男の質問の意味が分からなくて悩んでいると、男は自分から話し始めました。

「じつは私はもう30年になるんですよ。この格好になって。30年前初めて高級コートを買ったんですが、それがすこぶる着心地がよくて、それ以来包まれる喜びに目覚めてしまって、どうしても薄着だと落ち着かなくて、夏になってもコートが手放せないんですよ」

男はそう言うと過去を懐かしむようにコートの襟を立て直しながら遠い目をしました。

と言うことは、この男は一年中この格好でいるということでしょうか。今の季節はまだいいとして、真夏もこの格好じゃさすがに暑苦しくて周りに迷惑というものです。

しかし彼の悩みは身にしみて分かりました。当然おなじ境遇の二人ですから、ボクほど彼の悩みを理解できる人間はいないでしょうし、だから彼も話しかけてきたのでしょう。

ボクは親身になって彼の話を聞きました。男はボクの友好的な態度に安心したのか饒舌になり、自分の主張や世間の了見の狭さを話し始めました。そして気が緩んだのか、彼はついに禁断の告白をしてしまい、二人の変わり者は一気に敵対してしまったのです。

男はひとしきり話し終えると「やっぱり夏はこの格好じゃ暑いんですよね」と顔をしかめてみせました。ボクはその困ったような男の様子を見て、つい「暑ければ脱げばいいじゃん」と口走ってしまったのです。言ってすぐに後悔しました。あれほどボクを苦しめた浜っ子ギャルのセリフを、心ならずも自分自身が口にすることになろうとは…。

男が全速力で走り去っていったのは言うまでもありません。男の背中は泣いているようでした。当然ボクは彼の気持ちが痛いほど分かったのですが、猛スピードで走っていく彼の後姿を見て「あんなに走ったら暑いだろうな」としか思えませんでした。

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