湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


18.おけらの魔力

第一話:おけら現る

先日、用事があって千葉に出かけたのですが、思ったよりも用事は早く済んでしまい、駅に戻って時刻表を見てみると電車の発車までまだかなり時間がありました。

せっかくだから秋の太平洋でも見ようと思い、近くの海岸まで行ってみることにしました。その駅は潮風が漂うほど海のすぐそばにあったのですが、歩いていくと思ったよりも距離があり、駅に戻ってきた時にはもうとっくに電車は出てしまっていて、次の電車までまだ2時間以上ありました。

また海に戻るとまた乗り遅れてしまうので、駅の近所で待っていようと思い、駅前にある大きなパチンコ店に入ってみました。 店内はけっこう空席が多くて居心地がよさそうなので、久々にパチンコでもしながら電車を待つことにしました。

その店には普通の「パチンコ」とコインを入れて図柄をそろえるスロットマシーンのような「パチスロ」があったのですが、もちろんボクは勝負の早そうな「パチスロ」を選びました。

しばらく打っていると大当たりが出て見る見るコインがたまったのですが、次第に少なくなっていき、ある量になってからは増えも減りもしないような小康状態が続きました。

一時間ほどすると飽きてきたのですが、電車までまだ時間はあるし、コインも景品に代えるほどたまっていないし、止めるに止められない状態になってしまいました。ボクはいっそコインがなくなってしまえばいいのにと思いながら、気もそぞろに打っていたのですが、ふと足元を見ると「おけら」がいるのに気付きました。

「おけら」はコオロギみたいな昆虫なのですが、体つきはずいぶんコオロギとは違っていて、前足はシャベルのようになっていて、普段は地中にいてあまり見る機会はないと思うのですが、よりによってパチンコ店に現れるとは不可思議です。

しかしその虫はどう見ても「おけら」で、大きな前足をツルツルの床の上で何度も空振りしながら歩きにくそうに歩いていました。 ボクはその「おけら」を観察することにしました。

第二話:魔性の力

おけらはしばらく歩きにくそうにゴソゴソと大きな前足を動かしていたのですが、何を思ったかボクの左足のクツの下にもぐり込みました。クツの下なんてそんなに隙間はないので、おけらの体は入り切れず、しばらくゴソゴソしていたのですが、あきらめて体半分を隠したままおとなしくなりました。

ボクはおけらを踏むといけないので、左足を動かさないようにしたのですが、意識すると妙に左足に神経が行ってしまい、しばらくむず痒いような感覚が続いたのですが、次第に慣れてきて、そのままパチスロを続けていました。

パチンコ店にはいろいろなお客さんがいて、ボクの並びに座っていた中年のお客さんは、まだ昼過ぎなのに酒が入っているのか、しきりに台を叩いたり、歓声をあげたりして周りのお客さんに迷惑をかけていました。

ボクはつい心の中で「あのおじさん迷惑だな、正義のヒーローが現れてこらしめてくれればいいのに」と思ったのですが、声には出しませんでした。しかし、その心の声に答えるようにおけらがクツの下からはい出してきて、そのうるさいおじさんに向かって颯爽と歩いていったのです。おけらは相変わらず歩きにくそうだったのですが、そのおじさんの前まで行くと台の下でピタリと止まり、何やら意味ありげにおじさんを見上げました。

するとそれがきっかけだったように、そのおじさんの台はまったく当たりがなくなり、見る見るコインは減っていき、すぐになくなりました。おじさんはイライラしながらサイフから千円札の束を取り出して次々にコインに替えたのですが、それからは当たりが出ることはなく、ついに千円札はなくなり、おじさんはサイフの中やポケットの中を何度も確認していたのですが、どうみてももうお金はないようでした。おじさんは「おけら」になってしまったのです。

これはどう考えても「おけらの魔力」としか思えません。おけらがボクたちの心の声を聞いておじさんを退治してくれたのです。

おじさんを「おけら」にした「おけら」は、悠然と戻ってきてまたボクの左足の下にもぐり込みました。

第三話:最後の獲物

おけらの魔力は絶大で、次から次へとお客さんの足元に行っては台の下から意味ありげに見上げ、狙われたお客さんは何かにとりつかれたようにサイフの中が空になるまでお金を使い続け「おけら」になって帰っていきました。

おけらも最初のうちは、ひとり「おけら」にするごとにボクの足元に戻ってきていたのですが、次第に次々と獲物を渡り歩くようになり、ボクのところには戻ってこなくなりました。

一時間もしないうちにパチスロコーナーにいた数人のお客さんたちが餌食になり、あとはボクともう一人の女性客を残すのみとなりました。

一人残ったその女性客はいかにも不幸そうな雰囲気で、古びた買い物カゴからは萎びたネギがのぞき、束ねた髪は生活苦をにじませるように乱れていました。

さすがにこの幸薄そうな女性を「おけら」にしようとは思わないのではないかと、ボクは密かに思っていたのですが、おけらにそんな情けはまったく通じないようで、さっさと女性客の台の下まで行くと、例によって意味ありげに彼女を見上げました。もうこの時点で彼女の運命は決まっていました。彼女はなけなしのお金を使い果たし、生気の失せた青い顔をしてトボトボと帰っていくしかなかったのです。

最後の獲物を餌食にしたおけらは意気揚々とボクのところに戻ってきました。あれほどの魔力を発揮したこの怪物も、やはり安住の地はボクのクツの下ということなのでしょう。ボクはおけらがいとおしくなりました。

ところが、おけらはボクのクツの下にはもぐり込まず、脇を通り過ぎると台の下まで行きピタリと止まり、数人の客たちを血祭りにあげたあの意味ありげな表情でボクを見上げたのでした。

おけらにとって、本当の最後の獲物はボクだったのです。

第四話:おけらとの最終決戦

このパチンコ店における「おけらと客との勝負」の決着は、客が「おけら」になる、つまり有り金全部使い果たし持ち金がなくなることで、そのとき勝負は決しておけらの勝利となるのです。

つまり、すでにコインに対する執着心を失っているボクには負ける要素がないということです。

もうとっくにパチスロには飽きているし、さっきから増えも減りもしない小康状態が続いているので、いっそコインが早くなくなってしまえばいいのにと思っているし、そろそろ終わらないと電車にも間に合わなくなります。だから今持っているコインがなくなったところで、別になんとも思わないし、むしろ大歓迎なのです。

そのへんはおけらも察していたのでしょう、このパチスロコーナーでボクが最も強敵だと判断し、最後の対戦相手に選んだに違いありません。もちろんボクはこの勝負に異存はありません。いままでは多少なりとも心が通じ合っていたと思っていた仲ではありますが、こうなった以上しかたありません。この場所に勝利者は二人存在してはいけないのです。

最終決戦に備えおけらは力を温存していたとみえ、その魔力は強烈で、ボクのコインはどんどん減っていき、ほんの数分で十数枚を残すのみとなりました。

それでももちろんボクは余裕でした。早めに終わったら駅の売店でアイスクリームでも食べようとか、中村橋のスナックにお土産でも買って帰ろうとか、コインの残り数のことなんてなんにも気にせず、このゲームが終わってからのことに心を奪われていました。いや、そのはずでした。

情勢が激変したのは、コインがあと5、6枚になったところでした。その時、ボクは改めておけらの魔性の恐怖を知ることになるのです。

最終話:思わぬ死闘、そして…

パチスロは久しぶりだったのですが、2時間近くやっていたのでだんだん慣れてきて、その頃には大当たりが来る周期というか兆候というものがハッキリわかるようになっていました。そして、あとコインが数枚というところで、その大当たりの兆候が現れたのです。

しかしボクはこのゲームを早く終わらせて帰らなければ、電車に間に合わないわけでして、いくらこれから確実に大当たりが来るとしても、手持ちのコインがなくなればあっさり帰るつもりでいました。それは当然、最初からそのつもりでした。

ところが我ながら信じられないのですが、ボクは無意識というかなんというのか、コインがなくなると、なんのためらいもなくサイフから千円札を取り出してコインに替えていたのです。

千円分のコインはあっという間になくなり、ボクはまた何者かに誘われるようにサイフから千円札を取り出してコインに替えていました。

頭の中では分かっているのに、どうしても体がいうことをききません。ボクの心の中の劣情をおけらが操っているとしか思えません。しかし自分自身の行動を制御できないとはなんと情けないことなのだ、と自己批判している間にもどんどんコインはなくなっていき、手持ちのコインも残すところ十数枚になってしまいました。

これが数枚になったところでボクはまたまた劣情のおもむくままにサイフを取り出し、なくなったらすぐに千円札を使い、それを際限なく繰り返して「おけら」になるに違いありません。まさに「おけら」街道まっしぐらです。

この負の連鎖を断ち切るには十数枚残している今しかないと思いました。ボクは言うことをきかない体にムチ打って勢いよく立ち上がると十数枚のコインを台に残したまま振り向きもせずにパチンコ店を出ました。

店の外はもう秋の風が吹いていて、その風にあたりながらやっと我に返りました。しかし恐るべきはおけらの魔力です。と言うより反省すべきは己の意志の弱さです。

振り向いてみると今までいたパチンコ店の店内がガラス越しに見えました。それを眺めながら「この場所には勝利者なんて存在しないのだ」と改めて思い知らされました。

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