湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


16.ひとりごと酒場-秋

第一話:時の魔法

「ひとりごと酒場」はボクの行きつけの一杯飲み屋なのですが、夏に行った時、その店にずっといたおばちゃんが恋する男性と逃亡してしまい、それ以来疎遠になっていました。先日ふとあのおばちゃんのことを思い出し、久々に行ってみることにしました。
10.ひとりごと酒場・夏

ひょっとしたらおばちゃんはあっさり恋に破れ、また舞い戻っているかもしれないと思い、もし居たらどんな反応をしようかと考えながら店に入りました。

しかし店の中は以前とは雰囲気が変わり、趣味のよい置物や花が飾ってあったので、一目でもうおばちゃんはこの店にいないことがわかりました。きっとおばちゃんはあの男性とどこかの空の下で幸福になっているに違いありません。ボクは少し物思いにふけりました。

店にはお客さんはまだ誰もいなくて、ボクは入り口近くの席に腰掛けようとしました。すると奥から「あら、いらっしゃい、ごめんなさいね」と60歳過ぎくらいの割烹着を来た女性が、さも忙しそうに出てきました。いかにも小料理屋のママという風情のその女性は「煮物を作りすぎちゃったのよ、おなべが重くて」と困ったような顔をしてボクをちょっと見ると、すぐに「ビールでいいかしら」と続けました。

ボクは彼女の流れるような動作に見とれながら、もちろんビールをくださいと即答し、席に腰掛けました。

しばらくするとママはビールといっしょに小鉢を持ってきて、ビールを注ぎながら「ちょっと味が薄いかもしれないのよ」と切なげに小鉢に入った煮物を勧めてくれました。もちろんボクは一口食べて、こんなおいしいものはない、ビールといっしょに食べたらなおおいしい、と絶賛しました。

それを聞いてママは「よかった」と少し微笑むと、また「ちょっとごめんなさいね」と言いながら奥に引っ込んでいきました。その後姿を見て、ボクは少しときめきました。店に入ってきた時はママはどう見ても60歳過ぎにしか見えなかったのですが、話しているうちにどんどん若返っていき、今の後姿はどう見ても十代です。

ボクはママが注いでくれたビールを飲みながら、彼女はいったいどんな魔法を使っているのだろうと考えました。もちろんその時はこれから起こる「時の魔法」にまで考えは及ばなかったのですが…。

第二話:ラガーマン紳士現る

以前居たおばちゃんはすごく無愛想で注文もとらないほど客と話をしなかったので、自然とこの店には自己完結型の一人客だけが来るようになり、それぞれがひとりごとを言いながら飲んでいました。いつしか誰が言うともなく「ひとりごと酒場」と呼ばれるようになったのです。

だけど、もうおばちゃんは居ないし、その代わりのママは飛び切り社交的なようだし、もうこの飲み屋は「ひとりごと酒場」ではなく、上品な小料理屋になったのだなとボクは思いました。まあ、それはそれでいいのですが。

ママは奥の厨房に引っ込んだまま、しばらく出てくる気配もなく、ボクはママ手作りの味の薄い煮物を食べながらビールを飲んでいました。奥からは時々「あら、やだわ」というママの声が聞こえてきて、その度に何か失敗をしたのかなと心配もしましたが、それもこれもママの魔法のひとつなのだろうかとも考えていました。

次のお客さんが入って来たのは、ボクが来てから30分くらい経ってからでした。

そのお客さんは一人で入ってきたのですが、馴染みの顔ではなかったので「ひとりごと酒場」の客ではなく、「上品な小料理屋」のお客さんのようでした。ママと同年代くらいの恰幅のいい紳士で、年と不似合いなラガーマンのようなシャツを着ていました。それはそれで結構似合っていたのですが。

お客さんが入ってくる音を聞きつけて、奥からママが「あら、ごめんなさいね」と言いながら、またさも忙しそうに出てきました。

ところが、その紳士はママの顔を見ることもなく、いきなり「ごちそうさま」と言いながらサイフを取り出し、ママもまったく戸惑うことなく「いつもありがとう、2500円になります」と愛想よく答えました。

ボクは「ありゃりゃ、今来たばっかりなのに」と内心驚いたのですが、表情には出さずに二人の会話に聞き入りました。

第三話:仰天のひとりごと

そのラガーマン紳士はお金を払うとサイフを後ポケットにしまい、ドカッと席に座り、帰る気配はまったく見せませんでした。
 
ボクはその様子を見ていて、だいたいの見当は付きました。おそらくこのラガーマン紳士は前回のツケを払いに来たのでしょう。もちろんこの位の金額を払えないようなことはないのでしょうが、おつりがなくてママがどうしても次にしてくれとお願いしたとか、そんな経緯があったのに違いありません。

しかしこのラガーマン紳士はツケなんてしたことがないので、帰りにまとめて払えばいいものを、どうしても最初に清算しておきたいと考えて、来てすぐに「先日はごちそうさま」と言いながら払ったのでしょう。

スポーツマンらしい爽やかな行動です。どうやら彼は「ひとりごと酒場」の客ではないようです。この酒場の客ならそんな分かりやすい行動をとるはずがありません。やはりもうこの店に「ひとりごと師」は来ないのだな、と物思いにふけっていると、意外にもその紳士がポツリとひとりごとを言いました。

「そろそろ帰ろうかな」

ボクはこのひとりごとが何を意味するのか考えました。言葉は明快なのに場面に合っていません。これは明らかに「ひとりごと師」のひとりごとです。何か深い意味があるに違いありません。悩んでいるとラガーマン紳士がまたポツリとつぶやきました。

「もう食えんよ」

ボクは仰天しました。まるで寝言としか思えないような脈絡のない見事なひとりごとです。平易な言葉の羅列がよけいに解釈を困難にしていて、何のことだかさっぱり分かりません。

ボクは熟考に入りました。すると何を思ったかママが奥から洗面器のような超特大のどんぶりを持ってきて、「ああ、重かった」と言いながらラガーマン紳士の前にドンと置きました。中にはお茶漬けがなみなみと入っていて、こぼれんばかりに揺れていました。

「な、なんだこりゃ」それを見てボクは思わずひとりごとを言ってしまいました。

第四話:逆回転する時間

ラガーマン紳士は洗面器のような超特大どんぶりに顔を突っ込みながら、巨大お茶漬けを猛烈な勢いで食べ始めました。とても60歳を過ぎた人の食欲とは思えませんでした。

その食べっぷりを見ていて、この人は何かと戦っているのだとボクは感じました。彼はお茶漬けを食べているのではなく、消そうとしているのだと思えてならなかったのです。その巨大どんぶりに挑む姿からは、怒りにも似た使命感が感じられ、どんぶりから見え隠れする横顔はみるみる若々しくなっていき、しだいに希望に満ちた青年にしか見えなくなりました。

ラガーマン紳士は猛烈な勢いで巨大お茶漬けを食べ終わると、何事もなかったかのようにひとりごとを言いました。

「小腹がへったな、お茶漬けでも食べたいな」

ボクは驚きませんでした。もちろん笑いもしませんでした。もうすべてを理解していたのです。次のママの行動も、そして彼の行動も、そしてひとりごとも、もう何もかもが分かってしまったのです。ボクは両手で顔を覆い隠しました。

ボクの心のうちを察したのか、ママはそのラガーマン紳士に静かに語りかけました。

「もういいのよ、森くん」

ママがこの年輩の紳士を「くん」付けするところからみても、おそらく二人は高校生のころ出会ったのでしょう。しかし想いが実らぬまま別れ、長い時を経てこの店で再開したのです。高校生の頃の想いを断ち切れない男は、自分の人生を巻き戻してやり直したいと願い、まるでビデオテープを逆回転させて巻き戻すように、この店での行動を逆回転させて人生を巻き戻そうとしているのです。

ボクはあまりにも愚かでバカげた行為に胸を打たれ、顔を覆い隠した両手をずらして頭を抱え込み、そのまま動くことができませんでした。

ラガーマン紳士は構わずひとりごとを続けました。

「とりあえずビールでももらおうかな」

最終話:夕映えの校庭

いっこうに人生の巻き戻しをやめようとしないラガーマン紳士に、ママがまた「もういいのよ」と繰り返しました。それを聞いてラガーマン紳士は一瞬厳しい表情になり、そしてかみ締めるように語り始めました。

「いや、よくないんだ。どんなことがあっても私は時間を巻き戻すんだ。夕映えの校庭で君と初めて会った、あの時に時間を戻すんだ。そしてもう一度やり直すんだ。人から見れば愚かでバカげた行為かもしれない。しかし、やらずにはいられないんだ」   

ラガーマン紳士は力強く宣言すると急に立ち上がり、元気いっぱいの笑顔で「よ、こんばんは」と左手を挙げてあいさつし、後ずさりしながら右手で引き戸を開け、後ろ向きのまま勢いよく店を飛び出していきました。

ただでさえ難しい「後ろ走り」ですから、勢いをつけ過ぎたラガーマン紳士はあっちで転び、こっちで転びしながら、フラフラになって帰っていきました。いや、来たシーンを巻き戻していきました。

そのラガーマン紳士の奮闘ぶりを、ママはまるで放課後の校庭でラグビーの練習を見守る女子高生のように見つめていました。開け放しの引き戸から隣の看板のネオンの赤い色が差し込んできてママの顔に映え、まるで夕日の中に立っているようでした。

ボクはその光景を見て、子供の頃、近所のおねえさんと夕日を見にいった時のことを思い出していました。あの時のおねえさんも高校生くらいだったでしょうか、ボクにとってはときめくほどに大人で、その美しい横顔に夕日が映え、幼心にこのまま時が止まってしまえばいいのにと思っていました。

しんみり思い出にひたっているところに、ママが急に「何か食べる?」と聞いてきたので、きれいなおねえさんに聞かれたような気がして、思わず「チョコレート」と答えかけ、あわてて言葉を飲み込みました。ボクの時間も巻き戻されていたようです。

ママはもう小料理屋のママの顔に戻っていて、「煮物つくり過ぎちゃったからもうすこし食べてよ」と微笑みました。その笑顔にはさっきまで女子高生だった余韻がたっぷり残っていました。

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