15.純情おじさん残酷物語
第一話:美女の読書
9月になると夏のあいだ空いていた通勤電車もだんだん混んできて、最近では普段どおりの満員状態が続いているようです。ボクがいつも乗っている電車は満員とまではいきませんがやはり混んでいて、立っている人と人との間隔はほとんどないくらいです。
先日もそんな朝の通勤電車に乗っていたのですが、ふと見るとボクのすぐそばにスラッと背が高くて清楚な感じの美女が立っていて、文庫本を両手で持って読んでいました。その理知的な雰囲気は、まさに「読書の秋」の到来を思わせるものでした。
彼女の前には小柄なおじさんが立っていたのですが、彼女のほうがおじさんよりかなり背が高いので、彼女が持っている文庫本とおじさんの頭の高さがちょうど同じくらいになっていて、ふとしたはずみで文庫本がおじさんの頭の上に乗ってしまいました。
当然おじさんは文庫本を振り払おうと頭をちょっと振ったのですが、彼女はまったく意に介さず、おじさんの頭の上に文庫本を乗せたまま、平然と読書を続けていました。イラついたおじさんは、今度は頭を何度か振って文庫本を振り落とそうとしました。
すると彼女は文庫本から右手を離し、左手だけで文庫本が落ちないように支えながら、離した右手を高く挙げてバランスをとり、おじさんの激しい動きに対抗しました。その姿はまさに荒馬を乗りこなす「ロデオ」のポーズで、彼女が冷静で勇敢なカウボーイに見えました。
しばらく二人の攻防は続いたのですが、おじさんはもうかなわないと思ったのでしょうか、やがておとなしくなりました。彼女はおじさんがおとなしくなると、何事もなかったかのように、またおじさんの頭の上で読書を再開しました。
おじさんとしては、自分がちょっと我慢すればすむことだし、争いごとは避けようと思ったのでしょう。それが大人の判断というものです。しかしおじさんの災難はこれだけではすみませんでした。いやおじさんの悲劇は始まったばかりだったのです。
第二話:美女の潤い
しばらく彼女は優雅に読書を続けていたのですが、何か思いついたような顔をして、肩に掛けているバッグの中に右手を入れ、手探りで何かを探しはじめました。そしてなにやら奇妙な道具のようなものを取り出しました。
最初はそのハリガネでできた道具のようなものが何だか分からなかったのですが、よく見てみるとそれは携帯用の「飲み物置き器」でした。車の中で飲みかけのジュースのカンなどを入れておく金具で、バネ仕掛けになっていて車の揺れを吸収してジュースがこぼれないようにする、あの「飲み物置き器」です。
ボクはなんとなくこれからの展開が読めたのですが、さりげなく横目で観察していると、やはり彼女はボクの予想通り、躊躇することなく、その「飲み物置き器」をおじさんの襟首から背中に突っ込みました。
よく小学生の時に友達の背中に氷を入れて悪戯したものですが、そんな時はだいたいみんな同じリアクションをするもので、この時のおじさんも思っていた通りのリアクションで、思い切りのけぞると、また暴れ始めました。
もちろん彼女は今度も右手を高く挙げ、ロデオのポーズでおじさんの抵抗に対抗しました。やはり今度もおじさんは暴れるだけ暴れると疲れ果て、やがておとなしくなりました。
それを見届けると彼女はまたバッグの中に手を入れ、今度は飲みかけのペットボトルを取り出すと、それを少し口に含んでから、おじさんの背中に設置した「飲み物置き器」に入れ、また読書を再開したのでした。
おじさんとしてはじっと我慢してこの場をしのぐしかないと思っているようでしたが、残念ながらおじさんの災難はこんなことでは収まらなかったのです。と言うより、これからが本当の悲劇になるのです。
第三話:美女の予定
周りの乗客たちはただならぬ雰囲気に、おじさんと美女から遠ざかり始め、二人の周りにはちょっとした空間ができていました。
それでも彼女はまったく気にする素振りも見せず、水分を補給しながら悠々と読書をしていたのですが、ふと何か思いついたような顔をすると、急におじさんの頭の上の文庫本をバッグにしまい、続いて「飲み物置き器」もおじさんの背中から取り外してバッグの中にしまいました。
そればかりかおじさんの背中をやさしく撫ではじめたのです。おじさんは白い半そでのシャツを着ていたのですが、彼女はその背中のシワを取るように丁寧に撫でていました。
それを見ていた周りの乗客たちの表情が崩れました。「なんだかんだ言ってもやさしい女の子じゃないか、今までのことを反省しておじさんの背中のシワを取っているのだな」と誰もがそう思い、安堵の空気が流れたのです。しかし彼女の次の行動でまた車内は凍りついてしまいました。
彼女はバッグからマジックインキを取り出すと、シワがのびてきれいになったおじさんの背中に、ためらうことなく数字を書き始めました。
車内にはマジックインキのキュッ、キュッという数字を書く音が不気味に響き、おじさんは自分の背中で何が起こっているのか把握できないまま、凍り付いた周りの雰囲気に合わせてじっとしていました。
しばらくすると彼女が書いているのはカレンダーだというのが分かりました。曜日の並びからいくと今月のようで、彼女は1から31までの数字を書き終わると、今度は赤いマジックインキを取り出して、9月17日のところに赤いハートマークを書き込みました。それは今週の土曜日なので、おそらくデートかなにかの予定があるのでしょう、彼女は自分で書いたハートマークを見つめながら、少しほほを赤らめていました。
完全に彼女のリビングと化してしまった車内で、おじさんはもうピクリとも動かなくなっていました。
第四話:背負い込んだ悲しみ
朝の通勤電車で背中に9月のカレンダーを書かれては、おじさんもこれから会社に行きにくいでしょう。おまけに17日のところには赤いハートマークが付いているので、どこに行っても冷やかされるに違いありません。「お、17日はデートかい? にくいね~」なんて具合です。確かにデートはデートかもしれませんが、それは見知らぬ美女の予定であって、おじさんにはなんの関係もないことです。だけどおじさんはこのハートマークの言い訳を一日中しながら、背負い込んだ理不尽な不幸に耐えなければならないのです。大人ってなんて悲しいんでしょう。
彼女はしばらくおじさんの背中のカレンダーを見ながら、照れたり物思いにふけったりしていたのですが、何か思いついたらしく、またカバンの中に手を入れて探し物を始めました。
今度は何を出すつもりなのだろうかと思って見ていると、彼女は大きな手鏡を取り出しました。丸い大きな鏡に取っ手がついていて、古い物語に出てきそうなクラシカルな形をしていました。もちろんボクは彼女がそれをどうするかは大体の予想はついたし、他の乗客たちも分かっているようでした。
そして彼女は大方の予想通り、その鏡の取っ手の部分をおじさんの襟首から背中に突っ込み、鼻歌交じりに化粧を直しはじめました。
予想と違ったのはおじさんのリアクションで、またのけぞって抵抗するのかと思ったら、今度はまったく動かず、目は一線を見据えていました。
人間は怒りが限界に達すると無表情になると言いますが、おじさんの表情がまさにそれで、おじさんは眉ひとつ動かさずに振り向き、彼女を見上げました。あまりの怒りのためでしょうか、終始ゆったりとした動きで、それがまた不気味さを増していました。
車内にはこれから起こるであろう惨劇を予感して緊張が走りました。
最終話:涙のまごころ
おじさんが彼女を見上げた時、初めてその表情がはっきりとわかりました。ボクはてっきり激怒しているのかと思っていたのですが、おじさんは怒っていませんでした。それどころか穏やかな表情で、深く刻まれた目じりのシワからは止めどもなく涙が流れ、それが滴り落ちていました。おじさんは泣いていたのです。
おじさんは慈しむように彼女を見つめていました。おそらく彼女に人を思いやる気持ちや過ちを許す心を伝えたかったのでしょうが、頭ごなしに注意しても効果は期待でないし、感情のままに怒っても反感を買うだけで、彼女の心に届きません。彼女が心から反省し、これからの人生を思いやりの気持ちを持って生きていくように導くには、心の奥底から湧き出るような汚れなき純真な涙で「生き方」を教えるしかなかったのです。
ボクはその光景を見て感動しました。この殺伐とした現代社会に、こんなにも他人を許し、そして泣ける大人がいたとは驚きです。ボクは心からおじさんに敬意を表さずにはいられませんでした。
彼女もさすがにおじさんの涙を見て驚いたようで、あわててバッグの中に両手を入れて何かを探し始めました。
あわてている彼女の姿を見てボクは思いました。彼女はハンカチを探しているのでしょう。ハンカチでおじさんの涙を拭きながら、彼女も泣くに違いありません。きっと号泣です。おじさんの「涙のまごころ」が通じたのです。おじさんの広い心がこの若い女性の生き方を変えたと言っても過言ではありません。
乗客の間からは感動ですすり泣く声も聞こえてきました。ボクも涙をこらえるのがやっとでした。
しかし、彼女がバッグから取り出したのはハンカチではなく、文庫本とビニールカバーでした。彼女はすばやくその防水カバーを文庫本につけると、泣いているおじさんの顔の上に置き、何事もなかったかのように読書を再開したのでした。