湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


14.オレンジのハート

第一話:はじまりは雨宿り

あれはちょうどブログを休んで残暑を満喫しようと思っていた矢先の土曜日のことでした。朝からずっと寝ていたボクは夕方になってゴソゴソと起き出し、イソイソと飲みに出かけました。その日は数人で飲む約束をしていたのですが、約束の居酒屋のある街は初めて行くところだったので、迷ったらいけないと思って家を早めに出たら予定よりも30分も早く着いてしまい、近くの商店街をウロウロしながら「こんなところにも郵便局があるんだ」とか「このコンビニは夏でもおでんをやってるんだ」とか、小さな発見をしながら歩き回っていました。

しばらく歩いていて、ちょうど大型の熱帯魚店の前を通りかかったところで、急に大粒の雨がバラバラと降りだし、あっという間にどしゃぶりの雨になってしまいました。熱帯魚店の軒下から顔を出して空を見上げてみると、遠くの空は晴れているようなので、一時的な夕立のようでした。ボクはとりあえずその熱帯魚店で雨宿りをすることにしました。

その熱帯魚店はかなりの大型店で、設備も整っていて、水のメンテナンスがよいようで、水槽に入っている魚たちはいかにも元気そうに泳ぎまわっていました。

店内をのんびり歩き回っていると、ひときわ鮮やかな水槽が目に入りました。その水槽の中にはオレンジ色の小さな魚が数十匹泳いでいて、そのクリーミーなオレンジ色の美しさといったら、大自然の神秘そのものでした。それにも増してボクを惹きつけたのは、その魚たちの気品ある優雅なたたずまいで、見ているだけで心が落ち着いてくるような静謐感がありました。

ボクはその魚を買って帰りたかったのですが、これから飲みに行くのに、まさか熱帯魚の袋を下げて行くわけにもいかないので、かなり悩んだ末あきらめて外に出ました。

もちろんその時は、これがきっかけで3週間も悩みつづけることになろうとは、思いもよらなかったのですが…。

第二話:逢えない時間が愛育てるのさ

熱帯魚店を出ると、夕立はもう通り過ぎたようで雨は小降りになっていて、西の空は晴れているようで夕焼けでオレンジ色に染まっていました。

ボクはオレンジ色に染まった遠い空を眺めながら、自分のハートもあの空のように燃えるようなオレンジ色に染まっていることに気づきました。あの魚との出会いがボクのハートを炎の色に変えたのです。ひょっとしたらあの空をオレンジ色に染めているのもボクかもしれない、そんなことを考えながら軒下を飛び出し、雨を避けながら約束の居酒屋まで走りました。

その夜はいくら強い酒を飲んでも酔うことができず、あの魚のことばかり考えていました。周りの人が「オレンジ」とか「魚」とかの単語を口にするたびに、ボクのハートはそれに反応し、どんどん炎の色が濃くなっていくような気がしました。それを人に悟られないように、ひたすら濃い焼酎を飲みつづけました。

数日過ぎても、この想いは鎮まらず、それどころかますます悩ましくボクを責めつづけました。明けても暮れても、あの魚のことばかり考えるようになり、まさに「逢えない時間が愛育てるのさ」の原則どおり、考えれば考えるほど、ボクの気持ちは膨れ上がっていきました。だからといって何か行動を起こすわけでもなく、ボクはその想いを秘めたまま、夜になればいつものようにスナックのカウンターで飲みながら、想いを巡らすばかりでした。

金曜日の夜もそうやって惰性で飲んでいました。その日は幸いカラオケを歌うお客さんはいなかったので店内は静かで、ボクは有線から流れてくる古い流行歌の歌詞をなにげなく聞いていました。すると、聞き覚えのある歌詞の中に、あのオレンジの魚にピッタリの名前がありました。「ローラ…」

あのクリーミーな美しさといい、もの静かな物腰といい、どう考えてもあの魚は「ローラ」です。ボクはもうあのオレンジの魚は「ローラ」であると、思わずにはいられなくなりました。

「ああ、ローラ、待っててくれよ、明日逢いにいくよ」

ついにボクは決心しました。

第三話:ローラ、君はなぜに

翌日の土曜日、朝早くからボクはあの熱帯魚店に向かいました。少しでも早く「ローラ」に逢いたいと思い、普段では考えられないような早い時間に起き、家を出ました。一夜明けても情熱が消えていないことに我ながら驚きながら、地下鉄を降り、小走りにあの店に向かいました。

熱帯魚店に着くとドアが開くのももどかしく、店内に入ると一目散に「ローラ」のいる水槽を目指しました。「ああ、感動の再会だ」と胸が高鳴りました。逢えない時間に育てた愛を伝えたいとも思いました。そして、ついにあの水槽の前までたどり着いたのです。

しかし次の瞬間、ボクは感動の再会どころか水槽の前で崩れ落ちるのをこらえるのがやっとでした。なんと水槽の中はからっぽでローラは一匹たりとも泳いでいませんでした。この一週間ですべてのローラがいなくなってしまったのです。

ボクは水槽から目をそらすことなく手探りで店員さんを探し、やっと捕まえると肩をつかんで揺らし、ふるえる手で水槽を指差しながら、声にならない声で「ローラが、ローラが」と訴えました。どうしてそれで伝わったのかは不思議ですが、店員さんはすぐに理解して「ああ、この魚、人気があるので入荷するとすぐに売り切れちゃうんですよ~、次の入荷はいつになるかわかりませんね~、人気がありますからね~」と明るく答え、去っていきました。

ボクは体中の力が抜け、しばらくその場を動けませんでした。後悔することはたくさんあります。この一週間心の中で想うばかりで、なにひとつ行動しませんでした。そればかりか飲んでばかりで、ここに来たのだってほとんど酒の力です。

しかしいつまでも後悔していてもしかたありません。ここに居なければ他の店を探せばいいのです。ボクは気を取り直して、まるで犯人を取り逃がした若手刑事のように熱帯魚店を勢いよく飛び出し、右を見て、左を見て、また右を向き直すと、とりあえず全速力で駆け出しました。

第四話:悪い誘惑

とりあえず駆け出したのはいいのですが、ほかの店を探すといっても適当な店は思いつきませんでした。あの魚のよさを出すには大きな設備が必要ですし、そんな大型店はなかなかありません。

どのくらい歩いたでしょうか、一軒も熱帯魚店を探し出せないまま夕方になってしまいました。ずいぶんやみくもに歩いたので、いま自分がどこにいるのかも分かりませんでした。ふと見ると小さなペットショップがあり、奥に水槽のようなものがあって、その中にオレンジ色の影が見えたような気がしました。

その時はもう疲れてしまって判断力などなくなっていて、ボクはオレンジの影に誘われるようにそのペートショップにフラフラと入ってしまいました。その店は犬やネコが主なようで、奥に熱帯魚コーナーがあり、オレンジの魚はそこにいました。おそらく人気が高いということで、このペットショップにも置いているのでしょう。しかしもちろんこの施設では、あのオレンジの魚のよさは出ません。大きな設備の熱帯魚店でなくては、あの美しい色も静かな物腰も生まれないのです。

ボクは見てはいけないものを見てしまいました。設備の悪い水槽に入れられたオレンジの魚は、すでに美しいクリーミーな色ではありませんでした。そして何よりもボクを失望させたのは、魚に落ち着きがなく粗暴で、「ローラ」とは似ても似つかない魚になっていたことでした。その荒んだ姿に絶望し、フラフラと店を出たボクは、ついに良からぬことを考えはじめ、誰に言うともなくつぶやきました。

「あの店に行くしかないな…」

その時はもう自制心すらなくなっていました。目の前であの魚の荒んだ姿を見せつけられ、通常では考えないようなことまで頭の中を駆け巡りました。「あの熱帯魚店なら居るかもしれない」そう思いました。いやそのことはずっと分かっていたことなのですが、あの店には行ってはいけない理由があるのです。そう絶対に行くわけにはいかないはずの店なのです。

しかしボクは自分に言い聞かせるようにもう一度つぶやきました。

「あの店に行くしかないな…」

最終話:無情の黒板当番

その熱帯魚店に入ると、やはり水槽のメンテナンスはすばらしく、泳いでいる魚たちも元気そうでした。ボクはまるで我が子を探す母親のように水槽から目をそらさず、横歩きでどんどん進みながら「ローラ」を探しました。そしてついに見つけたのです。紛れもまくあの「ローラ」でした。あの日出会った「ローラ」に間違いありません。その静かな物腰は、またボクのハートをどんどんオレンジ色に染めていきました。

今までの想いをかみ締めるように両手を水槽につけて「ローラ」に見入っていると、一人の女性店員が寄ってきて声をかけてきました。

「わあ、趣味がいいですね。この子人気があるんですよ。今ならお買い得ですよ」

ボクは唖然としてその女性の方を向き、我に返りました。そうだったのです。この店は設備もよくて魚も元気なのですが、魚を見ているとすぐに店員が寄ってきて、まるで時代遅れの洋服店のようなセールストークをはじめるのです。人の思考を破壊するようなその行為が嫌やで今までこの店には来ていなかったのです。ボクは後悔しました。しかしもう後戻りはできませんでした。

彼女は無遠慮にセールストークを続け、ボクは黙って聞くしかありませんでした。人の心の中に土足で上がり込むというのはこういうことなのでしょうか。彼女の言葉の一つひとつが、ボクの心のオレンジ色をいとも簡単に消していきました。それはまるで小学生が黒板の文字を消すようにあっけないものでした。

あの狂おしいほどの想いがどんどん消されていくのを、ボクは呆然と立ち尽くしながら受け入れるしかありませんでした。どうしてこんなにも簡単にあれほどの熱烈な感情が壊れてしまうのか不思議な気もしていました。彼女はそんなことはお構いなしに、信じられないほどのスピードでボクの心を真っ白にしていったのです。

それから2週間も立ち直れずにいました。

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