湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


13.孫八郎伝説-夏

第一話:ぐい呑みに入れた水

ある休日の昼下がり、玄関のチャイムが鳴ったので、ボクはそこらへんに脱ぎ捨ててあったTシャツを着て、半ズボンをはき、やれやれという感じで玄関に出てみました。

ドアを開けてみると、そこには紺のスーツにエンジのネクタイというリクルートルックの70歳くらいの男性が立っていて、ボクと目が合うと「こんにちは」と爽やかに笑いました。男性は続けて「今度こちらの担当になったものなのですが」と言いながら名刺を差し出しました。名刺には会社名も住所もなく、名字すらなく、中央に「孫八郎」と印刷されているだけでした。

その日は蒸しかえるような暑さで、玄関のドアを開けただけでも熱気が部屋の中にドドドッと入ってくるくらいで、いつも部屋の冷房は18度に設定しているので、特に外の暑さはこたえました。

ボクは立ち話もなんですからと言って孫八郎さんを中に通しました。本音を言えば、さっさと帰ってもらい、Tシャツも半ズボンも脱ぎ捨ててビールでも飲みたい気分なのですが、こんな炎天下に年配の人を追い返すわけにもいきません。

孫八郎さんは恐縮して、何度もおじぎをしながらクツを脱ぎ、廊下を歩いている間も何度もおじぎをしていました。

とりあえず飲み物でも出そうと思って冷蔵庫を開けたのですが、ビールと水しかありませんでした。そんなことは最初から分かっていたことなのですが、そのふたつを見比べて、どうしようかと迷いました。実はこの水は深層水で2リットル1200円もする代物で、これを買う時、レジでボクの後に並んでいたおばちゃんが、この水の値段を聞いて腰を抜かしそうになったほどです。

昼間なのでビールよりも水のほうがいいだろうと思い、ボクはこの高級水をお気に入りのぐい呑みに入れて、「水しかないんですよ」と断りながら孫八郎さんの前に置きました。

第二話:冷やして食べるおにぎり

孫八郎さんは「おいしそうな水ですね」と言いながらも水には手をつけずに、にこやかに微笑みながら「最近どうですか」と聞いてきました。ボクとしては、この手の質問はよくされるのですが、気のきいた返事が出来たためしがありません。それでいつものように「ボツボツですよ」と意味不明ながらこれしかない返事をしました。

すると孫八郎さんは、またにこやかに微笑みながら「最近ボツボツですか」と聞きなおしてきました。これにはちょっと困りました。さっき「最近どうですか」と聞かれて「ボツボツですよ」と答えたばかりですから、「最近ボツボツですか」と聞かれれば、正解は「はい」です。

だけど、まさか「はい」とは答えられません。それでは当たり前すぎます。ボクは「いいえ」と答えました。

話は中断しました。孫八郎さんはこの展開を予想していなかったらしく、次の言葉が出て来ない様子でした。顔はにこやかだったのですが、気まずい空気が流れました。

これはいけないことをしたと思い、「そう言えば昨日はボツボツでしたよ」と言うと、孫八郎さんの顔に生気が戻り、「そうですか、昨日はボツボツでしたか」と聞きなおしてきたので、すかさず「いいえ」と答え、また話が中断しました。

ボクは深く反省しました。こんなことでは話が進みません。

とりあえず間をとるため冷蔵庫を開け、今日買ってきたばかりのおにぎりを取り出しました。これは驚異の新商品でして、冷やして食べると美味しいというおにぎりです。値段も破格の超高級品で、これを買う時、レジでボクの後に並んでいたおばちゃんがこのおにぎりの値段を聞いて、聞こえないふりをして口笛を吹いたほどです。

ボクは孫八郎さんに「おにぎりです」と言いながら、冷やして食べるおにぎりを出しました。

第三話:メロンという名のリンゴ

孫八郎さんはおにぎりを見ながら、あいかわらずにこやかに微笑んで「ほう、ホカホカで美味しそうですね」と褒めてくれました。ボクは戸惑いました。いま冷蔵庫から出してきたばかりの冷やして食べるおにぎりですから、ホカホカではありません。どうせ褒めてくれるのなら、「ほう、ヒエヒエで歯ごたえがありそうですねえ」くらいのことを言ってほしいところです。

それでも孫八郎さんは続けて、「やっぱり、おにぎりはホカホカが一番ですよね、ああ、これは美味しそうだ、湯気がもうもうと出ている」と言いながら、湯気の匂いをかぐポーズをしました。

しかし残念なことにこれも間違っています。何度も言うようにこれは冷やして食べるおにぎりでして、いま冷蔵庫から出してきたばかりですから、もうもうと出ているのは湯気ではなく冷気なのです。

ボクはいたたまれなくなって、また冷蔵庫を開けてみました。もうあと冷蔵庫に残っていてお客さんに出せるものとしてはメロンしかありません。ところがこれがややこしいことに呼び名はメロンなのですが、実態はリンゴなのです。見た目もリンゴです。だけど最高級のリンゴです。最高級すぎて呼び名が「メロン」になってしまったのです。

スーパーの店員さんによると、このリンゴは現在スーパーで売っている最高級のリンゴの上をいく高級品で、現在の最高級のリンゴの商品名が「ウルトラスーパーデラックス高級リンゴ」なので、これより高級となるともう言葉がありません。そこで「メロン」と名付けられたそうです。

レジのおねえさんがこのリンゴをメロンと呼んでいるのを聞いた、後に並んでいたおばちゃんは、ギャハハと笑いながら馴れ馴れしくボクの腕を引っぱたきました。それくらい変な名前なのです。

これはややこしいことになりそうだとは思ったのですが、ぼくは孫八郎さんに「果物でもどうですか」と言いながらメロンを出しました。何度も言いますが、メロンという名のリンゴです。

第四話:メロンとメロン

孫八郎さんは「メロンという名のリンゴ」を手に取り、「ほう、りっぱなメロンですね」ときっぱりと言い切りました。これは紛れもなく正解なのですが、どうも素直に受け取れませんでした。確かにメロンはメロンなのですが、外見はリンゴなので、普通はリンゴと言うはずです。

それにスーパーの店員さんの話では、このリンゴにメロンという名前を付けるまでにはかなりの紆余曲折があったらしく、何度も会議を開いて議論をたたかわせた末、意見がまとまらず、反対派は強行手段に出ようとしたのですが、社長が名前をメロンにしなきゃ会社を解散すると宣言して、結局「メロン」という名前になったそうです。

それほどの経緯があるにも関わらず、孫八郎さんはこのリンゴがメロンであるとあっさり見破ったのです。ボクは改めて「メロンという名のリンゴ」をマジマジと見つめました。どこかにヒントが隠されているのかもしれません。

その様子を見ていた孫八郎さんは、「最近メロンはどうですか」と聞いてきました。このあまりにも奥の深い質問にボクは絶句しました。いったい何を答えればいいのでしょうか。一般論としてのメロンの動向の分析でしょうか。それともメロンと名付けられたリンゴのその後でしょうか。もしかしたらメロンをボク自身に置き換えて答えるべきなのかもしれません。ボクは悩んだ末、気のきいた答えが思いつかず、結局「ボツボツですよ」と答えました。

それを聞いた孫八郎さんは愉快そうに「カッカッカッカッ」と笑いました。その笑い声はまるで事件が解決した時の黄門さまのようでした。

ボクもつられて「アッハッハッハッ」と笑いました。すこし芝居じみた笑い声でしたが、久しぶりに笑い声らしい笑い声を出したような気がしました。

さらに孫八郎さんは「カッカッカッカッ、カッカッカッカッ」と笑いました。

ボクも負けずに「アッハッハッハッ、アッハッハッハッ」と笑いました。

もう笑いが止まらなくなりました。

最終話:これにて一件落着!

笑いながら孫八郎さんは自分の耳を引っ張りました。ボクもそれを見て自分の耳を引っ張りました。不思議なこともあるものです。孫八郎さんは笑いながら耳を引っ張るクセがあるようですが、ボクにも同じクセがあります。普段はあまり人前で心底笑うことがないので、このクセは出ないのですが、いまこそ存分に出す時です。きっと孫八郎さんも同じ気分なのでしょう。

ひとしきり笑うと孫八郎さんは腕時計をみながら「おお、もうこんな時間ですか」と大げさに驚き「いやあ、すっかりおじゃまして申し訳ありませんな」と言いながら立ちあがりました。ボクも笑いながら立ち上がり、孫八郎さんを玄関まで見送りました。その間も笑い続けていました。

孫八郎さんは玄関で振りかえると、「あなたは楽しいお人だ、周りのみんなを幸福にする力がある」と言ってくれました。そして爽やかな笑顔を残して猛暑の中をさっそうと帰っていったのです。

ボクは笑いながら考えました。そう言えば、帰り際に孫八郎さんが言ったセリフはずっと以前にも聞いたことがあります。あの時はでっかくてシワくちゃな手で頭をなでられながら言われたような気がします。もうずっと昔のことです。

ボクは笑いながら居間に戻って、今まで孫八郎さんが座っていた椅子に腰掛けメロンをかじってみました。しつこいようですが「メロンという名のリンゴ」です。それは本当においしいリンゴで、まさに禁断の味がしました。そういえば、子供の頃、仏壇に備えていたリンゴをこっそり食べた時も、こんな禁断の味がしました。

ボクは笑いながら、いったい孫八郎さんは何をしにきたのだろうと思いました。なんだか以前にも孫八郎さんに会ったような気もします。まあ、今日は愉快なので、そんなことはどうでもいいでしょう。ボクは孫八郎さんのまねをして、締めくくりました。

「カッカッカッカッ、これにて一件落着!」

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