湯上がり文庫は、「湯上がりの恥ずかしがり屋」に掲載された、愛と哀愁に満ちたショートストーリー集です。


09.キモはあん肝

第一話:小さなおじさん怒る

ファストフードの店にはあまり入ることはないのですが、たまに入ってチキンナゲットを食べたりするとそれがクセになってしまい、もう止められなくなります。あのおいしさといったら、まるで悪魔的で、医者に止められているビールと組み合わせると、まさに禁断のディナーになります。

先日も自制心がうまく働かずファストフード店に足が向いてしまい、夕刊紙を読みながらチキンナゲットを食べていました。ちょうど夕方で若者が多い時間帯だったので、店内はファストフードらしいザワザワとした穏やかな雰囲気でした。

その穏やかな空気を破って突然「黙っててくれよ。こっちは勉強してるんだから」という男の怒鳴り声がして店内に響き渡りました。

何事かと思って声のほうを見ると、小柄なおじさんが立ち上がって、顔を真っ赤にして怒っていました。視線の先には女子高生らしき二人組がいて、おじさんににらまれて気まずそうにうつむいていました。きっと彼女たちのおしゃべりがうるさかったのでしょうが、それにしても「勉強してるんだから」というセリフはおじさんには似合いません。これは中・高校生の言葉であって、少なくとも定年間近に見える男性が女子高生に向かって言うセリフではありません。まったくもって立場が逆です。

しばらく気まずい空気が流れましたが、おじさんの怒りは鎮まりそうになく、まさに鬼の形相で女子高生をにらみ続けていました。ボクはその怒っている横顔を眺めながら、これは単なる怒りではないと思うようになりました。彼はまるで女子高生をライバル視しているように、彼女たちをにらんでいたのです。それは怒りというよりも、いらだちや焦りに近いものでした。

もちろんその時は、その怒りの奥にある本当の意味までは知るよしもなかったのです。

第二話:女子高生追い出される

おじさんの怒りはまったく収まる気配がなく、しばらく気まずい空気が続いていたのですが、女子高生たちも居づらくなったのか目で合図をして席を立ちました。おじさんはそれでもずっとにらみ続けていたので、女子高生の一人が振り向きながら「キモい」と言い残して、小走りに去っていきました。

ボクは珍しく女子高生の肩を持つ気になりました。ここは図書館でもないわけだし、たいしてうるさくしていたわけでもないのに、あんなにしつこくにらまれたら、誰だって「キモい」と言いたくなります。

女子高生たちが出て行ってから店内には一時的に安堵の空気が流れたのですが、緊張は消えませんでした。なんといっても、彼女たちはそんなに騒いでいたわけでもないのに、怒鳴られ、にらまれ、追い出されたわけですから、ちょっとでも声を出したら何をされるか分かったもんじゃありません。だからと言ってすぐに帰ろうとしたら、このおじさんのことですから、どんな攻撃をされるか予想もつきません。とにかくみんな息をひそめて展開を見守っていました。

それにしてもこのおじさんは何者なのでしょうか。あの怒りの中に見えた別の種類の感情はなんだったのでしょうか。ボクはまったく見当もつかず、またおじさんのほうを見てみました。おじさんはもう勉強を再開していて、なにやらノートに一所懸命に書き取りながら、ブツブツとつぶやいていました。

ボクは懸命に勉強するおじさんの姿を眺めながら思いました。もしかすると、彼は女子高生たちの会話がうるさかったから怒ったのではなく、その内容が気に入らなかったのかもしれません。さっきまでの女子高生たちの会話を思い出してみると、内容は聞き取れなかったのですが、しきりに「キモい」という言葉を使っていたような気がします。そして帰り際にも「キモい」とおじさんに言い放って出て行きました。

「キモい」か…。この若い女性特有の造語に、この事件の謎が隠されているような気がしてきました。

第三話:おじさんそれでも猛勉強

ボクは「キモい」という言葉の持つ奥深さが、今回の事件の原因であると確信しました。

つまりこうです。「キモい」という言葉は「気持ち悪い」の略語のはずなのに、最初の「キモ」と最後の「い」しか残っていないので、このままでは「気持ち良い」のか「気持ち悪い」のか分かりません。ですから「キモい」と言う場合、それなりに気持ち悪そうな雰囲気がなければ相手に真意が伝わりません。

ところがあの女子高生たちときたら、未熟なのか清純なのか「キモい、キモい」と連発しながら、まったく気持ち悪さが表現できていなくて、せっかくの奥深い言葉を使いこなせていなかったのです。そこでおじさんは「キモい」の真の使い方を教えるために、あえて意味不明なことを言い、奇怪な行動をとることにより、女子高生たちがちゃんとした「キモい」を言えるような環境を作り上げたのです。

どうやらおじさんはかなり思慮深い大人の男のようです。

ボクは事件が解決した安堵感からちょっと鼻唄でも歌いたくなりました。そう思っていると、どこからともなく「キモはあん肝、かけるはだいだい」という調子のいい声が聞こえてきました。見ると声の主はおじさんでした。きっと女子高生に正しい言葉の使い方を教え、自分の勉強もはかどり、思わず鼻唄が出てきたのでしょう。

ボクはこの思慮深い大人の男が何を勉強しているのか知りたくなり、トイレに行くふりをしておじさんのノートをのぞきこんでみました。そして仰天しました。

おじさんのノートには「キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい…」とビッシリ書かれていたのです。

どうやらこの事件はもっともっと奥が深いようです。

第四話:ついに一線を越える

おじさんがノートに何百回、何千回と書き取りながら、ブツブツとつぶやいていた「キモはあん肝、かけるはだいだい」とはいったいなんのことなのでしょうか。意味としては「肝を食べるならあん肝が一番だよ、だいだいをかけて食べればいっそうおいしいよ」という意味に間違いないでしょうが、どうしておじさんはこのセリフをムキになって練習していたのでしょうか。謎は深まるばかりです。

それ以来、ボクの頭からはこのセリフが離れなくなってしまいました。街を歩いていても自然にこのセリフを口ずさむようになり、すれ違う人はケゲンそうな顔をしてボクを見て、冷やかに笑うのでした。

それでもボクは「キモはあん肝、かけるはだいだい」と言い続けました。居酒屋で飲みながらブツブツ言っていると、板前さんが恐縮して「うちは焼きとり屋なので、あん肝は置いてないんですよ」とか「だいだいではなくてカボスを置いているんですよ」とか、いちいち謝られたりもしました。それでもこのセリフを言い続けるのを止めませんでした。そして何千回、いや何万回か口ずさんだ時、突然その瞬間は訪れたのです。

ボクはいつものように「キモはあん肝、かけるはだいだい」とブツブツ言いながら街を歩いていました。すると不思議なことに、ある時点を境に自分の耳に入ってくる自分の声が「キモい」という短い言葉になっていたのです。その時ボクは確信しました。とうとう一線を越えたのです。

おそらく何度も何度も同じセリフを繰り返しているうちに、このセリフが持つ深い意味を自然に理解できるようになり、いつしか完全に自分のものにしたのです。それにより表現力は増していき、説明的な部分を省略しても、最初の「キモ」と最後の「い」だけで十分に意味が通じるようになったのです。ボクは試しにもう一度「キモはあん肝、かけるはだいだい」と言ってみました。やはり「キモい」としか聞こえませんでした。

ついにボクは奥深い言葉「キモい」を完全に習得しました。もちろん若い女性が使う「キモい」ではありません。思慮深い大人が時と場所を見極めて使う「キモい」なのです。

最終話:風流人二人踊る

ボクは「キモい」を習得した達成感から晴々とした気分で西新宿のあたりを歩いていました。自分自身の中に新しい可能性を発見した高揚感からでしょうか、いつもは殺風景な都会の風景がキラキラと輝いて見えました。

するとどこからともなく「キモはあん肝、かけるはだいだい」という懐かしい声が聞こえてきました。声のしたほうを見ると、やはりそこにはファーストフード店で見かけた小柄なおじさんがいて「キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい」と連呼しながら踊っていました。

ボクは思わず拍手しました。

やはりおじさんのセリフも見事に成熟していたのです。通行人たちには、おじさんが「キモい、キモい」と連呼しているようにしか聞こえないでしょうが、ボクにはちゃんと「キモはあん肝、かけるはだいだい、キモはあん肝、かけるはだいだい」と聞こえました。ボクの「キモい」が恥じらいに満ちた控えめな「キモい」であるのに対し、おじさんの「キモい」は人生経験を生かした厳しさとやさしさを持ち合わせた「キモい」に仕上がっていました。同じ言葉でも熟成のさせ方によってこれほど味わいが違うとは、まさに言葉は生き物です。

ボクは気持ちの昂りを抑えきれず、おじさんといっしょに踊り始めました。ボクが見事に仕上がった「キモい、キモい」を披露しながら踊ると、一瞬おじさんは驚いた顔をしましたが、すぐに満面の笑みで迎えてくれました。風流人ならではの心の通い合いです。

ボクたち風流人二人は、巨大なビルが林立する殺風景な都会の片隅で、通行人たちの冷たい視線を一身に浴びながら「キモい、キモい」と連呼し、いつまでもいつまでも踊り続けたのでした。

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