江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

山形の特産物「最上紅花」の流通の様子を描いた屏風で知られる青山永耕

(右隻)

(左隻)
青山永耕「紅花屏風」(山形県指定有形文化財)山寺芭蕉記念館蔵

六田村(現在の東根市)に生まれた青山永耕は、若くして上山藩御用絵師・丸野清耕に学び、のちに養子となって丸野永耕と称した。29歳の時に藩命によって江戸に出て狩野永悳に師事し、養家を離れて雪窓斎永耕と号し、江戸で20余年活躍した。その後帰郷し、郷里でさかんに制作活動を展開、明治初年には狩野姓を許され、晩年は狩野永耕を名乗った。

作品は多く残されているが、特に著名な作品に「紅花屏風」がある。これは幕末期に描かれたもので、最上山形の特産だった紅花について、右隻右端の春の種まきから始まり、京都の紅花問屋との取引に至るまでの生産と流通の過程を精巧に描いており、文化的、産業的にも貴重な資料となっている。

青山永耕(1817-1879)あおやま・えいこう
文化14年六田村(現在の東根市)生まれ。青山運四郎の長男。幼名は揆一。別号に丸野永耕立貞、狩野永耕応信、雪窓斎、聴雪斎がある。若年の頃より尾花沢の沼沢永朔に師事したと伝えられているが、天保頃に上山藩の御用絵師・丸野清耕の弟子となり、間もなく養子となり、丸野永耕立貞を名乗った。29歳の時、藩命によって江戸の奥絵師狩野永悳の門に入り、以来20余年間、雪窓斎永耕と号し、「狩野四人衆」の一人として世評高い画人となった。その後嘉永7年頃には郷里の六田に移住し、間もなく旧姓に戻して青山永耕と称した。明治初年には狩野家よる狩野姓を許され、その後は狩野永耕応信と称した。門人には羽咋応明、会田耕源らがいる。代表作の「紅花屏風」(山寺芭蕉記念館保管)は県有形文化財に指定されている。昭和43年に「狩野永耕保存会」が結成され、画集が刊行された。明治12年、63歳で死去した。

山形(21)-画人伝・INDEX

文献:村山の歴史、天童美術の流れ展、山形の屏風絵展、山形県の文化財、村山ふるさと大百科、武田喜八郎著作集巻2、山形美術館収蔵品目録、郷土日本画の流れ展