江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

日本南画の祖・祇園南海

祇園南海「五老峰図」

紀伊の儒者・祇園南海(1676-1751)は、「詩画一致」の思想を打ち立て、高度な教養に裏打ちされた、画、書、詩が渾然一体となった作品を創出し、彭城百川(1697-1752)、柳沢淇園(1703-1758)らとともに日本南画の祖とされる。また、桑山玉洲(1746-1799)、野呂介石(1747-1828)とともに紀州三大南画家のひとりでもある。

日本における南画は、中国から輸入された『八種画譜』や『芥子園画伝』などの木版画譜類を手本に、日本の教養人たちが画を学んだことにはじまり、南海もこれらの画譜をはじめ、伝唐寅「山水図巻」など、日本にもたらされた中国画をもとにして、絵画技法を修得したとみられる。南海の絵画学習の実態は不明な点も多いが、友人である泉州佐野の豪商・唐金梅所にあてた書状の中では、自分の画の師は長崎で活躍した黄檗画僧・河村若芝であり、上野若元とは同門であると語っている。

南海は書画のみならず、漢詩人として数多くの著作を残しており、南海の詠んだ詩を集めた『南海先生集』のもととなった自筆本『南海詩集』をはじめ、十数点の著書を残している。

祇園南海(1676-1751)ぎおん・なんかい
延宝4年、紀伊藩お抱え医師の子として江戸で生まれた。名ははじめ汝斌で、のちに瑜と改めた。字は正卿、または伯玉、通称は與一。別号に箕裾散人、鉄冠道人、信天翁、湘雲主人などがある。14歳で京都の儒者・木下順庵に入門し、早くから詩文の才能を発揮し、榊原篁洲、新井白石、南部南山、雨森芳洲らとともに木門十哲と称された。22歳で家督を相続し、紀伊藩の儒官となったが、25歳の時に不行跡という理由で、知行召し上げのうえ、和歌山城下を追放となり、那賀郡長原村(現在の紀の川市貴志川町)に謫居させられた。

宝永7年、35歳の時に五代藩主・徳川頼方によって謫居は解かれ、その翌年、来日した正徳度の朝鮮通信使の応接役の任を受け、公義筆談に務めた。期待通りに南海の漢詩は朝鮮側の李東郭からも高く評価され、その功績が認められ禄高も元に戻された。その後、徳川頼方によって紀伊藩の藩校である講釈所(湊講舘)が創設され、南海は督学となり、宝暦元年、76歳で死去するまで藩の学事を司った。

祇園餐霞(1713-1791)ぎおん・さんか
正徳3年生まれ。祇園南海の二男。名は尚濂、字は師援、通称は餘一。はじめの名は孫三郎。別号に鉄船、百懶などがある。父の業を継いで紀伊藩に仕え、詩書をよくし、画も巧みで、特に黒梅を得意とした。餐霞もまた、不行跡ということで、府城二十里外鉛山の地に13年間謫居させられ、のちにもどって儒者として仕えた。寛政3年、79歳で死去した。

和歌山(6)画人伝・INDEX

文献:祇園南海とその時代紀州郷土藝術家小傳