紀南田辺で活躍した狩野派の画人としては、真砂幽泉がいる。近世の田辺では、医者や学者らが余技として画を描くものはいたが、師系のはっきりした画人としては幽泉のほかはみあたらない。幽泉は、十代の頃、京都の鶴澤探索に入門し、その子の探泉に学んだとされる。鶴澤派は狩野探幽の高弟である鶴澤探山(1655-1729)を祖とする江戸狩野に連なる画派のひとつである。「幽泉」はこの初代探山が初期の頃に用いていた雅号で、それを幽泉が譲り受けたようである。幽泉の作品は親交のあった月潭和尚が住職をしていた和歌山県西牟婁郡上富田町岡の普大寺に多く残されている。
真砂幽泉(1770-1835)まなご・ゆうせん
明和7年生まれ。田辺領三栖組の大庄屋・新左衛門友穎の長男。名は友親、幼名は紋之助、はじめ順蔵と称し、のちに順助、新助、元右衛門、富右衛門、幸右衛門と改名した。安永5年に父が31歳で急逝したため、当時下秋津村の庄屋役であった目良利兵衛が真砂家の家督を相続し、幸右衛門久富と改名して三栖組大庄屋役を勤めた。そして幽泉の養父となった。
幽泉は養父・久富の世話により十代の頃に数年間京都に滞在し、狩野探幽の高弟と伝えられる鶴澤探山を祖をして京都で栄えた鶴澤家の三代目・法眼探索に入門し、探索とその子・探泉に狩野派の技法を学んだとされる。享和3年、幽泉が34歳の時に養父・久富が官職を辞して隠居したため、三栖組大庄屋本役に就いて家督と相続することになった。残った資料によると、この間も公務の合間に京都に出て絵手本の模写などを積極的に行っていたようである。また、文化10年には八代紀州侯重倫の命で人物山水図を献上したり、同じく重倫の奥女中から菩提寺の西方寺を通じての依頼により是徳上人や法然上人の肖像画を描くなどした。
天保2年に大庄屋役を辞して御画師御用人支配となってから、本格的に画業に専念するようになり、特別な親交のあった月潭和尚が住職をつとめる普大寺に寄宿し、龍虎の襖絵をはじめ多くの作品を残した。天保6年、66歳で死去した。
和歌山(4)-画人伝・INDEX
文献:真砂幽泉展