明治維新の前後にいち早く西洋美術と出合った徳島の画家として、原鵬雲、井上辨次郎、守住勇魚がいる。日本の美術はこの時期に欧米の美術と本格的な接触を持つようになり、大きく変貌していった。近代美術の幕開けの時期であり、この3人はその先駆けといえる存在である。原鵬雲(1835-1879)は、江戸末期の文久元年に幕府の遣欧使に随行し、パリのルーブル美術館を訪れた。現地で西洋美術の作品群を目の当たりにした最初の日本人画家とされる。井上辨次郎(1860-1877)は明治6年から9年にかけてイギリスに留学、日本で最も早い時期の美術留学生である。守住勇魚(1854-1927)は住吉派の日本画家・守住貫魚の子だが、早くから洋画を志し、明治9年に開設された工部美術学校で、イタリア人画家・フォンタネージの指導を受けた。この学校は明治政府が作ったもので、西洋美術を体系的に教えた日本で最初の学校で、明治初期の洋画を考えるうえで欠かせない画家の一人である。
また、明治から昭和初期にかけて活躍した徳島を代表する洋画家として、明治30年代中頃から40年代初頭にかけて全国的に流行した水彩画ブームのきかっけを作った三宅克己(1874-1954)、ピカソの新古典主義に学んだ量感ある裸婦像を発表し、昭和初期の洋画壇に一時代を画した伊原宇三郎(1894-1976)らがいる。
原鵬雲(1835-1879)はら・ほううん
天保6年生まれ。通称は市助、のちに介一、字は子竜。藩の銃卒で徳島富田に住んでいた。守住貫魚について住吉派を学んだ。文久元年、幕府が欧州へ修好使臣を派遣するにあたりこれに随行して、英、仏、和、独、葡などを歴遊、文久3年に帰国した。のちに教育者となり、明治7年より広島師範学校の図画教師となった。明治12年、45歳で死去した。
井上辨次郎(1860-1877)いのうえ・べんじろう
万延元年静岡県沼津市に生まれ、本家である小松島にあった井上家の養子になった。井上家は徳島を代表する豪商で、代々回船業などを家業としていた。明治6年、維新の時代を乗り切る広い見識を期待した養父の希望で、兄の麟太郎とともにロンドンに留学した。ロンドンに着くとまもなく絵を描くことに興味を示し、やがて本格的な修業に入った。しかし、明治9年には病気のため帰国し、翌年18歳で死去した。
守住勇魚(1854-1927)もりずみ・いさな
安政3年生まれ。名は詮之助。守住貫魚の子。父と違い洋画を志し早くから東京に出て国沢新九郎の彰技堂に学んだ。ついで明治9年工部美術学校に入学、イタリア人画家・フォンタネージの教えを受けた。明治11年、フォンタネージの後任フェレッティの排斥運動を起こして同志とともに退学。この時に行動をともにしたのは、浅井忠、小山正太郎、松岡寿らで、年号にちなんで十一会という会を結成した。のちに京都に出て三高、同志社、京都高等工芸学校などの教師をした。教師としての勤務が長かったせいか小学校用の臨画手本などの著書があるが、画人としての活躍はあまりみられない。性格もやや偏屈なところがあり、門人の沢部清五郎によると、世間から忘れられたものとしてあえて画壇の表面に出ようとする意図は見られなかったという。昭和3年、73歳で死去した。
徳島(20)-画人伝・INDEX
文献:近代徳島の美術家列伝