江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

幕末の三筆・貫名海屋

貫名海屋「扁額墨竹図」草書五言絶句賛

市河米庵・巻菱湖とともに幕末の三筆にかぞえられる貫名海屋(菘翁)は、阿波徳島藩の旧家で藤原鎌足以来の系譜を持つ小笠原流の礼方家であった吉井家の二代目当主・直好と藩御用絵師・矢野常博の娘との間に二男として生まれ、幼い頃は母の弟である矢野栄教から狩野派を学んだ。のちに明の画人銭穀の作である「真景山水図」を観る機会を得て南画に転じたという。書は中国北宋の書家米元章の筆意を得ていた西宣行について学び、儒学については木村蘭皐、ついで高橋赤水に学んだ。しかし、17歳の時に武士の家を捨て、母の末の弟である僧霊瑞を頼って高野山に入り、空海の書に心酔してその筆意の修得に努めた。儒者、詩人として著名だった海屋は、同時に書家・南画家としての評判も高く、様々な文人たちと交流した。そのメンバーは、当時の文化人サロンの中心的存在だった頼山陽(1780-1832)をはじめ、四条派の岡本豊彦(1773-1845)、浦上玉堂の子・浦上春琴(1779-1846)、尾張の中林竹洞(1776-1853)、山本梅逸(1783-1856)、大垣の江馬細香(1787-1861)、梁川星巌(1789-1858)らで、春琴、竹洞、梅逸には多くの阿波の画人が門人として学んでいる。

貫名海屋(1778-1863)ぬきな・かいおく
安永7年生まれ。徳島弓町藩の礼法家・吉井永助(直好敬堂)の二男。兄は直道永蔵。幼名は政三郎、のちに苞、または直知、直友ともいった。字は子善、または君茂。通称は省吾、または泰次郎。最初の号を東城といった。のちに海客、海賓、海叟、海屋、海玉、客林、晩年には摘菘翁、方竹山人、嘉永子、菘叟、須静堂主人、三緘主人など多くの別号を用いた。貫名姓は祖先が遠江の貫名郷の出であったためそれをとったといわれる。はじめ叔父の矢野栄教につき狩野派の画を学び、のちに南画に転じた。高野山で空海の書を見て書に執着、ついに書家として一家をなした。西宣行に米元章の書を学び、長崎に赴いて鉄翁にも学んだという。大坂を経て文化5、6年ごろに京都に居を定め、はじめ聖護院に住み、のちに下加茂に移った。文久3年、86歳で死去した。

貫名天蓼(1843-1902)ぬきな・てんびょう
天保14年生まれ。名は均蔵、はじめ野本金蔵といった。別号に貫均がある。徳島市富田浦町の人。藩士で海屋の甥・吉井三作の二男。貫名硯城の弟。10歳ころに京都に出て、海屋の家に寄宿して画を学んだ。のちに貫名姓を名乗った。約20年間大和に居たのちに妻とともに帰郷、徳島富田に住んだ。『阿波国最近文明史料』によれば「風采容儀が人受けが悪かったためか世人賞するもの少ないのは惜しい」とある。明治35年、60歳で死去した。

三宅舞村(1833-1907)みやけ・ぶそん
名は高達、字は玄達。美馬郡舞中島の人。家は代々医者。15歳の時に岩本贅庵に師事した。大阪に出て広瀬旭荘らに学び、のちに長崎に遊び、日田の広瀬淡窓の門に入った。京阪に帰ってからは医を学ぶかたわら貫名海屋、梁川星巌について詩書を学んだ。父の死によって帰郷、脇町郷校、のちに長久館の寮員となった。詩文に巧みで、古書画、器什、刀剣に造詣が深かった。明治40年、75歳で死去した。

徳島(7)画人伝・INDEX

文献:近世日本の書聖 貫名海屋阿波画人名鑑