栃木県下都賀郡家中村(現在の都賀町家中)に生まれた刑部人(1906-1978)は、小学生の時に父親の転勤に伴って上京し、川端龍子のもとに通って日本画を学んだ。中学卒業後は東京美術学校西洋画科に入学し、和田英作の指導を受け、在学中に帝展に入選、卒業後も帝展、新文展に作品を発表した。
画家として順調なスタートを切った刑部だったが、当時続々と欧州から入ってきていた美術の新思潮に影響され、自分の作風について悩んだこともあったが、その結果としてたどり着いたのは、時流に惑わされることなく写実中心の自分本来の道を進むことだった。
戦後は、先輩画家の金山平三との数々の写生旅行を経て、ペインティングナイフのバネの反動を活かした筆致で独自の画風を確立し、日本各地を旅して四季の移ろいを描き、日展、新世紀美術協会を舞台に活躍した。
新宿区下落合にあった刑部のアトリエは、瀟洒な洋館で、周囲に調和していながらも一際目を引いていたという。当時の下落合は「落合文士村」と呼ばれ、多くの小説家や画家が住んでいて、刑部の隣には小説家・林芙美子が夫とともに住んでいた。(現在は新宿区立林芙美子記念館)
芙美子の夫・緑敏も春陽展に出品する洋画家だったが、画業よりも趣味の薔薇づくりのほうが評判がよく、隣の刑部をはじめ、梅原龍三郎、中川一政、朝井閑右衛門らが緑敏が育てた薔薇を好んで描いた。現在残っている彼らの薔薇絵のうち、その多くが緑敏の薔薇を描いたものだとされている。
参考:薔薇の花を育てた画家
刑部人(1906-1978)おさかべ・じん
明治39年下都賀郡家中村(現在の都賀町家中)生まれ。大正7年父親の転勤に伴い上京、川端龍子に日本画を学んだ。大正13年東京府立第一中学校を卒業し、東京美術学校西洋画科に入学、和田英作教室に学んだ。昭和3年同校在学中に第9回帝展に初入選。卒業後も帝展や新文展に出品を続けた。終戦の翌年から開催された日展では、第1回展、4回展で特選を得た。昭和18年日展会員に推挙された。昭和33年第3回新世紀美術展から委員として参加し、以後毎回出品した。昭和53年、71歳で死去した。
栃木(34)-画人伝・INDEX
文献:刑部人展-四季の彩=日本の風景美、北関東の近代美術、ゆく河の流れ-美術と旅と物語、栃木県歴史人物事典