江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写実性や装飾性を取り入れた異端の南画家・石川寒巌

石川寒巌「松林図」栃木県立美術館蔵

栃木県黒羽町(現在の大田原市)に生まれた石川寒巌(1890-1936)は、早くから文学や美術に興味を持ち、19歳で上京、太平洋画会研究所で油彩画を学ぶとともに、佐竹永邨について南画を学んだ。しかし、念願の東京美術学校への入学もかなわぬまま、翌年肺炎にかかり帰郷。郷里で療養ののち、地元の小学校で代用教員となって図画を教えた。そのかたわら、那須雲照寺の釈戒光について参禅し、導師より「寒厳」の道号を授けられ、以後雅号にもこれを用いるようになった。

大正9年、30歳の時に再び上京、同郷の画家・関谷雲崖の紹介で小室翠雲の門人となり、南画会や翠雲が主宰する環堵画塾展に出品した。大正11年、第2回日本南画院展に初入選し好評を得て、翌年同人に推挙され、以後日本南画院を舞台に活動した。昭和4年には、小堀鞆音、小杉放菴、松本姿水ら栃木県出身の在京日本画家有志によって「華巌社」を組織、東京と宇都宮で隔年に展覧会を開いた。また、小杉放菴の提唱で始まった「老荘会」にも参加した。

2度目の上京以来、寒巌が一貫して目指したものは、独自の南画を確立することだった。南画の伝統を尊重しつつも、写実性を取り入れ、郷里の風景や武蔵野の面影を残す東京近郊の風景を描いた。後年は、琳派などの装飾性も吸収してその調和を図ろうとしたが、盲腸炎再発のため46歳で急逝した。

石川寒巌「秋晴」栃木県立美術館蔵

石川寒巌(1890-1936)いしかわ・かんがん
明治23年栃木県那須郡黒羽町生まれ。本名は寅寿。明治42年大田原中学校を卒業して上京、太平洋画会研究所で油彩画を学ぶ一方、佐竹永邨について日本画を学んだ。翌年肺炎のため帰郷。郷里で療養中参禅し、導師より寒巌の道号を受ける。大正7年第4回南画会展に初入選。大正9年再上京して小室翠雲に師事し、日本南画院同人として活動した。小杉放菴らと在京栃木県県出身作家集団「華巌社」を組織。模倣に終始していた南画に写実性に装飾性の紙された作品を描いたいる。昭和11年、46歳で死去した。

栃木(19)-画人伝・INDEX

文献:近代黒羽の大画家石川寒巌、北関東の近代美術、栃木県歴史人物事典