日光東照宮の絵画御用には、狩野探幽、神田宗庭、木村了琢のほか、やまと絵住吉派の住吉具慶(1631-1705)も携わっている。具慶は、住吉派開祖の父・如慶を継いで住吉派二代目となり、徳川幕府の御用絵師をつとめた。幕府がやまと絵を評価し御用絵師に登用したことの意義は大きく、このことにより近世やまと絵の展開を確かなものにしたといえる。
具慶の父・住吉如慶(1599-1670)は、やまと絵土佐派の絵師・土佐光吉の子光則の弟とも伝わっているが、近年の研究では、光吉の門人説が有力である。天海僧正の推挙で関東に下向するにあたって名目上光則の弟分になったのではないかとも考えられている。光吉は晩年京都から和泉堺に移り住んでいるが、堺に生まれた如慶はその光吉のもと幼いころから画を学び、光吉没後はその子光則に師事したと思われる。
光則は、寛永11年に18歳になった子の光起を伴って堺から京都に移ったが、如慶はそれよりも先に京都に出ていたと思われる。そして天海僧正の招きによって東照宮縁起の制作のため寛永2年関東に下った。寛文元年には剃髪し号を如慶と改め、翌年後西天皇の勅命によって住吉家をおこした。二代目を継いだ具慶以後は、広保、広守、広行、広尚、弘貫、広賢と代々継いで家業を守った。
住吉如慶(1599-1670)すみよし・じょけい
慶長4年和泉堺生まれ。住吉派の祖。名は広道、または広通、通称は内記。初期の絵画研鑽には諸説あり、光吉もしくは光則の弟子とされ、はじめ光棟と名乗ったとされる。また、京都の持明院家や廬山寺で絵や学問の修行をしたともいわれている。寛永元年妙法院尭然法親王のもとで剃髪、出家し、如慶の号が与えられ、法橋に叙せられた。さらに翌年には御水尾院の意向を受けて後西天皇の勅命により鎌倉時代に廃絶した住吉慶恩の画系を復興し住吉を継承するため住吉氏を名乗った。代表作に「紀州東照宮縁起絵巻」「源氏物語画帖」「伊勢物語絵巻」などがある。寛文10年、73歳で死去した。
住吉具慶(1631-1705)すみよし・ぐけい
寛永8年京都生まれ。住吉如慶の子。名は広純、広澄、通称は内記。延宝2年妙法院尭恕法親王のもとで剃髪、出家し、具慶の号が与えられ、法橋に叙せられた。貞享2年幕府の御用絵師となり、元禄4年法眼に叙せられた。代表作に「洛中洛外図巻」「宇治拾遺物語絵巻」「徒然草画帖」などがある。宝永2年、75歳で死去した。
栃木(5)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術