関東に本格的な水墨画をもたらした鎌倉五山建長寺の画僧・祥啓(不明-不明)は、はじめ同じ建長寺の仲安真康に学び、のちに京都に上り将軍家同朋の芸阿弥に師事した。その間、室町幕府所蔵の中国絵画の名品を模写して多くのことを学び、帰郷の際には師の芸阿弥から「観瀑図」を贈られた。関東に中央の様式を伝え、関東画壇で大きな影響力を持った。
祥啓の出身地に関しては諸説あるが、狩野永納が著した『本朝画史』や栃木関連の文献によると、祥啓は下野国の宇都宮氏十三代当主・宇都宮持綱の家臣・丸良(ツブラ)綱武の子で、宇都宮氏第八代貞綱を開基とする古刹興禅寺において得度したと伝わっており、その後鎌倉の建長寺に入ったとしている。
しかし、現在のところ下野における祥啓の制作活動を知るべき資料は残っておらず、栃木県下にある祥啓作品も近年になって他から入手したものと思われ、下野から祥啓派の画人も発見されていない。
なお、『本朝画史』に記載のある「ツブラ」姓については、『とちぎ美術探訪』の記述によると、栃木県の「ツブラ」姓には、「螺良」「粒良」「津布楽」などがあり、江戸初期の宇都宮市の家臣帳には「螺良」の名があるという。
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栃木(2)-画人伝・INDEX
文献:とちぎ美術探訪、栃木の美術、栃木県歴史人物事典