小倉遊亀(1895-2000)は、滋賀県滋賀郡大津丸屋町(現在の大津市中央1丁目)に生まれた。父親は大津で時計商を営んでいたが、遊亀が10歳の時、土木事業を興す野望を持ち、日露戦争終結後の満州に単身で渡った。しかし、やがて父からの仕送りは途絶え、残された母子は母の仕立物で生計を立てる生活を余儀なくされた。
そんなつつましい暮らしのなか、遊亀は、滋賀県立大津高等学校を卒業後、ひとつの県から一人か二人しか入れないという難関の奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学し、選修科目に図画をえらんだ。
当時同校で図画を教えていた横山常五郎は、東京美術学校で菱田春草や西郷孤月と同期で、一期上の横山大観や下村観山とも親交があった。また、日本史担当の水木要太郎は、大和の生き字引と呼ばれ、明治40年頃に奈良の古美術を研究するために内地留学していた若き日の安田靫彦とも親交があった。遊亀はこの二人の教師の影響で、画の道に進む決意をするようになる。
同校卒業後は、京都や名古屋の学校で教員をしていたが、大正9年に横浜の捜真女学校に赴任したのを機に、同年大磯の安田靫彦を訪ね、念願だった入門を許される。
入門時、自分の描くものは何を描いても皆同じような形だけのものになると悩む遊亀に、師の靫彦は、生まれ変わりたいなら技法の上ですでに出来ている型を破ることだとし、さらになるべく手馴れないものを描くよう勧めた。そして「何年かかってもよいでしょう。自分を出そうとしなくても、見た感じを逃さぬよう心掛けてゆけば、その都度違う表現となっていつの間にか一枚の葉っぱが手に入りますよ。一枚の葉っぱが手に入ったら、宇宙全体手に入ります」と諭した。この言葉が、終生遊亀の画業の指針となった。
靫彦の門下生となった遊亀は、大正15年、日本美術院展に初入選し、以後同展に出品を続け、昭和3年には女性で最初の日本美術院同人となり、一躍画壇で注目されるようになった。その後も、院展を舞台に活躍し、芸術選奨文部大臣賞、日本芸術院賞などを受賞、日本芸術院会員、文化功労者にも選出され、昭和55年に文化勲章を受章した。そして、平成2年から平成10年まで日本美術院理事長をつとめ、平成12年、105歳の天寿をまっとうした。
小倉遊亀(1895-2000)おぐら・ゆき
明治28年滋賀県滋賀郡大津丸屋町(現在の大津市中央1丁目)生まれ。溝上巳之助の長女。遊亀(ゆき)は本名。大正2年滋賀県立大津高等女学校(現在の滋賀県立大津高等学校)を卒業後、奈良女子高等師範学校(現在の奈良女子大学)国語漢文部に入学。大正6年同校を卒業後は京都の第三高等小学校で教員となった。大正8年に名古屋の椙山高等女学校教員、大正9年に横浜の捜真女学校講師となり、同年安田靫彦に師事した。大正15年再興第13回日本美術院展に初入選、昭和7年女性として初めて日本美術院同人に推挙された。昭和9年東京府女子師範学校でも教鞭をとり、昭和11年捜真女学校を退職。昭和13年山岡鉄舟門下の禅徒・小倉鉄樹と結婚し、それ以降は鎌倉に居住した。昭和14年東京府女子師範学校を退職して教員生活を終えた。昭和28年第4回上村松園賞、昭和30年芸術選奨文部大臣賞、昭和32年第8回毎日美術賞を受賞。昭和37年日本芸術院賞を受賞し、昭和51年日本芸術院会員となった。昭和53年文化功労者となり、昭和55年文化勲章を受章した。平成2年から平成10年まで日本美術院理事長をつとめた。平成12年、105歳で死去した。
滋賀(37)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち