渡辺公観(1877-1938)は、大津鍵屋町(現在の大津市)に生まれた。父親は円満院門跡の侍医をつとめていた。円満院門跡は当時、大津における文化人の後援者的存在だったことから、公観も教養豊かな環境のなかで育ったと思われる。
大津高等小学校卒業後は、親の勧めもあり彦根中学校に進学したが、卒業を待たずに京都美術工芸学校に転校した。しかし、同校も1年で退学して四条派の森川曽文に入門し、本格的に画を学びはじめた。26歳の時に師曾文が没した後は、他に師を求めず、独学で画業に励んだ。
明治40年に創設された文展の第1回展に入選し、その後も何度か文展に入選したが、文展に出品する作家たちが、個々の自由な表現ではなく、入選しやすい傾向を意識して制作しがちになっていることに疑問を持ちはじめ、大正8年に文展が改組され帝展となったのを機に官展への出品をやめ、同年11月の日本自由画壇の結成に参加した。
東京の上野精養軒で行なわれた日本自由画壇の設立宣言によると、同団体は「大なるものに反抗すべき性質をもつと誤解されるが、何等他の拘束を受けず同人自由の製作を発表する機関」で「言はゞ個人展覧会の集合団体」であるとしている。
以後公観は、日本自由画壇展を作品発表の場とし、その間も画の研究は怠らず、晩年は与謝蕪村に私淑し、さらに中国古画に学ぶなど独学で画技をみがき、多くの作品を残した。
渡辺公観(1877-1938)わたなべ・こうかん
明治11年大津鍵屋町(現在の大津市)生まれ。本名は耕平。初号は春泉、別号に狂魚洞、遊魚洞、大湖州人などがある。明治25年大津高等小学校卒業後、彦根中学校に進学したが、2年ほどで退学して京都美術工芸学校に入学したが同校も1年で退学し、明治28年森川曽文の門に入った。明治40年第1回文展入選。その後も文展には第8回、第9回、第10回、第12回に入選したが、大正8年の文展改組を機に、池田桂仙、井口華秋、伊藤小坡、猪飼嘯谷、林文塘、西井敬岳、加藤英舟、高山春凌、玉舎春輝、上田萬秋、植中直斎、小村大雲、水田竹圃、庄田鶴友、広田百豊と日本自由画壇を結成し、同展を発表の場とした。昭和13年、61歳で死去した。
滋賀(36)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち