江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岸派に学び郷里長浜の地域発展にも貢献した中川耕斎

中川耕斎「呉二喬読兵書之図」

中川耕斎(1838-1922)は、近江国坂田郡乾村(現在の滋賀県長浜市山階町)に生まれた。幼いころから画を好み、隣村川崎村の僧・淡崖に画の手ほどきを受け、梅塘と号した。20歳頃から彦根の絵師・吉田雪斎に師事し、蓬仙と改号し、24歳頃に京都に出て岸竹堂に師事し、耕斎と改号した。

27歳頃から加賀国や越前国など北国街道沿いを遊歴し、写生や古画の研究を重ねた。花鳥画を得意としたが、岸派が得意とした虎の絵(参考1参考2)をはじめ、山水画、動物図など様々な作品を手がけ、依頼があれば歴史画や肖像画も描き、掛け軸や屏風、襖絵などの作品を湖北各地に残している。

明治維新後は帰郷し、各地で開催された博覧会や絵画共進会に出品し、郷里でも求められるままに画を描いた。弟子の育成にも励み、門人は70余人いたと伝わっており、主な門人としては小森竹塘、清水節堂、加納凌雲らがいる。また、神照村(長浜市)の村長をつとめるなど、地域の発展にも貢献した。

中川耕斎(1838-1922)なかがわ・こうさい
天保9年坂田郡乾村(現在の長浜市)生まれ。吉左衛門の長男。幼名は梅之助、名は澄、字は静、15歳で元服して龍輔と改めた。初号に梅塘、蓬仙が、別号に浩然堂がある。はじめ淡崖に画の手ほどきを受け、のちに吉田雪斎、岸竹堂に師事した。明治維新後は帰郷して展覧会などに出品するとともに多彩な作品を制作し、明治3年に大津県の依頼で近江国絵図を描いた。明治28年には神照村(長浜市)の村長をつとめ、地域の発展にも力を注いだ。大正11年、85歳で死去した。

加納凌雲(1878-1958)かのう・りょううん
明治11年生まれ。酒造業を営む加納清九郎の三女。本名はきく。滋賀県私立高等学校(のちの大津高等女学校)を卒業後、長浜高等小学校で教鞭をとるかたわら中川耕斎に師事した。明治32年上京して東京美術学校に入学。野村文挙や野口小蘋ら近江ゆかりの画人と交友し、橋本雅邦に師事した。大正12年関東大震災を機に帰郷、自宅の離れを玄牝庵と名付けて作画に励んだ。65歳頃に白内障を患って視力が弱まってからは、玄牝庵に籠り、法華経千巻の写経を行ない、宗教者として心を病んだ人の精神治療を施したという。昭和33年、81歳で死去した。

滋賀(23)-画人伝・INDEX

文献:近江の画人