江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

名古屋四条派、松村景文の系譜

呉春の異母弟である松村景文に師事し四条派を修めた名古屋の画家としては、立松義寅、浅井星洲、小栗伯圭らがいる。かれらの系譜もまた、四条派特有の写実性を生かした抒情的な表現で世に受け入れられた。

立松義寅(1810-1883)たてまつ・よしとら
文化7年熱田大瀬子町生まれ。富豪・鈴木七左衛門長の八男。名は義寅、字は長寅、通称は太左衛門。号は嘉陵。幼い頃は野村玉渓について四条派を学び、のちに京都に出て松村景文に師事した。また、清水雷首の教えも受けている。中国南海の山水、名勝をさぐって研鑚につとめ、名古屋に戻り宇治川先登の図を熱田神宮に納めて画名をあげた。笠寺の富豪・立松太左衛門義民の養嗣となり、家業のかたわら画を描き、のちに名古屋市島田町に隠棲した。明治16年12月16日、74歳で死去した。

浅井星洲(1788-1862)あさい・せいしゅう
天明8年中島郡苅安賀生まれ。名は正永、通称は勘兵衛。幼い頃から京都に出て、呉春の門人・柴田義董に学び、のちに景文に従って、猿の画を得意とした。なかでも赤翕毛の写生につとめ、その妙は森狙仙に譲らなかったといわれた。尾張藩主に愛賞され、御留筆と称して許可がなければ、みだりに人の求めに応じることができなかった。文久2年10月7日、75歳で死去した。

小栗伯圭(1792-1837)おぐり・はくけい
寛政4年知多郡半田生まれ。通称は半七、字は士復。別号に素軒・修同館がある。呉春・景文に師事して四条派を学んだ。山水、花鳥、人物を描き、また詩文和歌をたしなんだ。書は王羲之の古法帖に学び、隷書をよくした。天保8年5月17日、47歳で死去した。

小田切春陵(1857-1902)おだぎり・しゅんりょう
安政4年生まれ。小田切春江の長男。名は忠和、通称は多芸雄。画を父と立松義寅に学び、図案に専心し実用に供した。また、父の遺稿を集めて『奈留美加多続編』を出版し、さらに地図作製に長じていて『銅版三河国全図』の著書がある。

高鍬義穆(1894-1886)たかくわ・ぎぼく
天保元年愛知郡本星崎村生まれ。高鍬素道の子。名は藤重郎。幼い頃から画を好み、立松義寅の門に入って四条派を学んだ。尾張志摩紀伊西京を遊歴した。俳諧を永井士前に師事して巴陵と号した。明治19年6月2日、56歳で死去した。

河村光文(1867-不明)かわむら・こうぶん
慶応3年名古屋生まれ。河村穆堂の子。名は竹彦。はじめ父に学び、のちに立松義寅に師事して四条派を修めた。

菅井義秋(1855-不明)すがい・ぎしゅう
安政2年11月7日名古屋関鍛冶屋町生まれ。菅井海霜の子。通称孫右衛門。立松義寅に師事した。

吉田蘇川(不明-1861)よしだ・そせん
伝来の酒造家の子として中島郡小信中島に生まれ、長じて父の跡を襲名した。画を浅井星洲に学び、のちに名古屋の小島老鉄に師事した。弟の稼雲とともに画名をあげたが、文久元年旅の途中で死去した。

小栗晩翠(1795-1871)おぐり・ばんすい
寛政7年生まれ。小栗伯圭の弟。通称は仙八郎、字は徳卿。別号に先慎、愛善、松下堂がある。兄とともに呉春・景文に学んだ。画のほかに俳諧、狂歌、和歌をたしなんだ。文政9年の『をはり田のみ』に尾張の名所画4枚のうち東浦図を描くなど、俳書の挿絵もした。明治4年6月、77歳で死去した。

新見東谷(1801-1874)にいみ・とうこく
享和元年生まれ。通称は角左衛門。小栗伯圭に師事し、山水、花鳥、人物いずれも得意とした。明治7年、74歳で死去した。

小栗美成(1810-不明)おぐり・びせい
文化7年2月7日知多郡半田生まれ。通称は兵作。別号に春江、成美がある。12歳の時に小栗伯圭に画を学び、のちに京都の岡本豊彦に師事し四条派を修めた。

小栗豊水(1812-1847)おぐり・ほうすい
文化9年生まれ。小栗伯圭の長男。半七家の七代目。通称は半七、字は士績。画を岡本豊彦に学んだが、家業を守り、弟たちに画業を継がせた。弘化4年10月4日、36歳で死去した。

小栗俊彦(不明-1889)おぐり・としひこ
小栗伯圭の二男。通称は友松、別号に岡本舎人がある。はじめ父に学び、のちに京都の岡本豊彦について四条派を修めた。豊彦の嗣となって岡本の姓を名乗ったが、故あって離縁したため、青蓮華光院の近侍となって、岡本舎人と称した。明治22年7月24日死去。

小栗亮彦(1818-1884)おぐり・すけひこ
文政元年生まれ。小栗伯圭の四男。通称は保吉、字は士朗。別号に暁翠、澄神斎がある。はじめ父に学び、のちに岡本豊彦について四条派を修めた。兄の俊彦が豊彦のあとを嗣いだが、離縁になった後、その嗣となって岡本姓を名乗った。中年中風にかかり、左手の自由がきかなかったが、右手だけで自在に描き、中国・北陸地方を遊歴して評判を得て、画名をあげた。明治17年、67歳で死去した。

小栗錦水(1828-1892)おぐり・きんすい
文政11年10月生まれ。小栗伯圭の六男。通称は六平。父に学び、のちに呉春派から北派に転じ、また南画派に入った。芥子園佩文らの画伝を閲して、明清諸家の画法を学んだ。とくに写生を好み、各地を遊歴して名勝地を実写した。明治25年3月30日、65歳で死去した。

尾張(18)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑