郷里に帰る中林竹洞と別れ、全国各地の遊歴の旅に出た山本梅逸は、京都から大坂、山陽、四国とめぐり、さらに北陸へと足を延ばし、いったん名古屋に戻ったあとは、江戸に姿を現すなど、再上洛するまで名古屋を拠点に活発な動きを見せ、新進の南画家として、各地で学者や文人と交わりを持った。天保3年に京都に居を構えた後は、画作と向き合いつつ、煎茶道具を自作したり、煎茶の会を主催したりもした。また、印を自刻するなど、多芸多趣味の人であった。晩年は名古屋にもどり後進の指導にあたり、藩の御用をしたりもした。
梅逸の弟子たちは、梅逸の画風を忠実に守るか、まったく離れてしまうかの両極端な画風を示す傾向にある。小島老鉄や風花翁雲阿などは梅逸の山水とは異なった方向を示しており、奥野碧潭は竹洞の影響が強い。また、山本梅所や青木蒲堂らは梅逸の風俗画の延長線上にあるもので、加藤石華や沼田月斎ら美人画浮世絵を得意とした画家もいる。
柴山東巒(1800-1848)しばやま・とうらん
寛政12年生まれ。名は準春、字は志賀三、通称は先之。別号に漂麦園、愛蝶軒がある。尾張藩士で前津飴屋町に住んでいた。画を梅逸に学び、特に墨竹を得意とした。風流を好み儒雅との交わりも多く、篆刻もよくした。嘉永元年、59歳で死去した。
舎人葵園(1780-1848)とねり・きえん
安永9年生まれ。名は経栄、字は華卿、通称は平兵衛。別号に鼓腹がある。尾張藩士。画を梅逸に学び、写生にすぐれていた。嘉永元年2月18日、64歳で死去した。
加藤石華(不明-1851)かとう・せっか
東春日井郡瀬戸生まれ。名は半二、別姓に亀井。別号に玉暁、玉山がある。製陶業・川本半助の職工で、文政ころ森高雅の門に入り美人画を学び、のちに梅逸に師事、花鳥画にとりくんだ。また、絵画技巧を陶磁器のデザインや絵付けに活かし、瀬戸染付の進歩に貢献した。嘉永4年3月17日死去。
小島老鉄(1793-1852)こじま・ろうてつ
寛政5年4月18日生まれ。通称は友七郎、左一郎。別号に采風外史、絵屋友七がある。知多郡松原村の小島平八の一族で、名古屋伏見町に生まれた。はじめ狩野派の吉川一渓の門に入り、梅逸のもとに移ってからは頭角を現し、高弟の一人に数えられるようになった。淡彩による潤いのある山水画に特色があり、師とは違う世界を創りだした。無欲清淡いにして奇行が多かったという。嘉永5年6月8日、60歳で死去した。
奥野碧潭(1790-1854)おくの・へきたん
寛政2年生まれ。名は友之、通称は津之国屋喜兵衛。中須賀町の津之国屋という筆墨商。画を梅逸に学び、山水画を得意としていた。筆が巧みで、梅逸の花鳥や竹洞の山水を贋作して破門されたという。嘉永6年、64歳で死去した。
野村竹外(1820-1866)のむら・ちくがい
文政3年生まれ。名は惟叙、字は子哥、通称は新次郎。別号に橋左堂がある。名古屋五条町で塩問屋を営んだ。画を梅逸に学んだ。文雅風流を好み、儒学を国松国宇に受け、書を柳沢維賢に学び、神波即山、青木蒲堂らと親しく交流した。慶応2年11月27日、47歳で死去した。
上田桃逸(不明-1869)うえだ・とういつ
中島郡片原一色に生まれ。名は為民。別号に常春軒がある。名古屋に出て画を梅逸に学んだ。明治2年6月22日死去。
青木蒲堂(1810-1872)あおき・ほどう
文化7年生まれ。通称は知多屋庄次郎。名古屋大船町の塩問屋の二男として生まれ、独立して正萬町で酒造を営んだ。幼い頃から画を好み、梅逸に学んだ。明治5年3月15日、63歳で死去した。
山本梅所(1832-1873)やまもと・ばいしょ
天保3年越後五条生まれ。名は双吉。梅逸の妻の姪と結婚して後嗣となる。絵に打ち込むよりも行動を好む性格を持ち、幕末の際は志士と結び東奔西走し、明治2年には初めて新聞を発行。断髪、洋服の着用など開化の先導者となった。明治6年、42歳で死去した。
中川梅岳(1811-1878)なかがわ・ばいがく
文化8年名古屋城御土居下生まれ。名は正有、字は玉保、通称は貞三郎、左一郎。別号に梅華斎、友山子、雪華園、芳春亭がある。梅逸に学び、藩主斉朝に召されて席画を試み、また殿中の襖に画を描いた。明治11年12月16日、68歳で死去した。
風花翁雲阿(1806-1880)ふうかおう・うんあ
文化3年生まれ。名は雲阿、通称は円龍。別号に天竺花老人、月道人、六字吟叟がある。東照宮別当尊寿院16世。梅逸に花鳥を、日根野対山に山水を習った。絵の他に書、詩歌、陶磁器、など多方面に才能を発揮した。明治13年1月12日、75歳で死去した。
平野泥江(1813-1888)ひらの・でいこう
文化10年名古屋巾下四間道生まれ。名は卓章。別号に竹仏がある。父は木綿問屋を営んでいた。梅逸に学び、墨竹を得意とした。明治17年、72歳で死去した。
岡本梅英(1869-1890)おかもと・ばいえい
文化6年4月9日生まれ。名は伸夫、通称は唯三、字は考棋。別号に銀香斎がある。尾張藩士・岡本唯右衛門正利の長男。幼い頃から画を好み、15歳で梅逸の門に入った。尾張侯より将軍家へ献上する岐阜提灯の絵を描いた。明治23年6月10日、82歳で死去した。
三輪可墨(1830-1901)みわ・かぼく
天保元年生まれ。通称は喜兵衛。名古屋東袋町に住み刀剣を商い、維新後は廃業し名古屋博物館古画管掌の吏となった。はじめ山本鉄山、梅逸に学び、没後は小島老鉄、木下稼雲に師事した。明治34年3月25日、72歳で死去した。
沼田荷舟(1838-1901)ぬまた・かしゅう
天保9年名古屋水筒先町生まれ。名は正之。別号に朴斎がある。尾張藩士・沼田月斎の孫。幼い頃から祖父に画を学び、花鳥を得意とした。東京にでて制作活動をし、旧皇居の障壁画を描いた。著書に『荷舟花鳥画譜』がある。明治34年2月、64歳で死去した。
尾張(9)-画人伝・INDEX