江戸が華やかな庶民文化に湧いていた江戸時代後期、名古屋城下においても文化的繁栄の時代を迎えていた。賑やかな祭りや華やかな行列が街を彩り、芝居、見世物、開帳などが頻繁に催され、人々は繁栄の時代を謳歌していた。
尾張藩士・高力猿猴庵は、その庶民たちの姿や風俗を丹念に描き上げ、貴重な資料として残している。猿猴庵については不明な点が多く、尾張藩士としては中級の上くらいで、職務は閑職だったという。師系も定かではなく、私生活についてはさらに不明で、30歳で妻をなくし、自らの死の直前には嫡子に先立たれたと伝えられている。
名古屋市博物館には猿猴庵の本コレクションがあり、図録・サイトで紹介している。ここでは主に猿猴庵の周辺の人々について記載する。→猿猴庵の本コレクション
高力猿猴庵(1756-1831)こうりき・えんこうあん
尾張藩士。名は種信、通称は新三・与左衛門。別号に吾遊叟、紀有菜、馬甲散人などがある。30歳の時に父のあとを継ぎ、馬廻組を命じられた。翌年、江戸に赴き数年滞在したとされる。この時期は不明な点が多いが、江戸での生活は、制作の上で大きな影響を与えたと思われる。天保2年、76歳で死去した。
内藤東甫(1728-1788)ないとう・とうほ
猿猴庵の義理の叔父。尾張藩士。享保13年生まれ。江戸狩野の門人。名は正参、通称は浅右衛門、別号に閑水、朽庵、泥江隠士がある。安永6年春日井郡の尾張藩御凉御殿障壁画を担当した。横井也有ら当時の文化人と交流があった。『張州雑志』の挿絵や、暮雨巷の雅集『姑射文庫』の画を描いた。天明の飢饉に画を売って窮民を救うなどした。泥江に隠居後は風流優雅な生活を送った。天明8年死去。東甫が主導して編集した尾張地方の絵入雑録『張州雑志』は、百巻におよぶ大作で、若い頃の猿猴庵がこれに学んだことも十分に考えられる。
高力種昌(不明-不明)こうりき・たねまさ
猿猴庵の祖父。著書に雑録『夕日物語』がある。猿猴庵の出生以前に他界しているので直接の影響はない。
高力種篤(不明-不明)こうりき・たねあつ
猿猴庵の父。著作は伝わっていないが、『続梵天図会』の一部をもとに描かれており、猿猴庵の仕事の源流は、種昌や種篤に発するものと考えられる。
高力全休庵(不明-不明)こうりき・ぜんきゅうあん
猿猴庵の孫。父久信が猿猴庵より先に没したため、猿猴庵の死去直後に幼くして高力家の当主となった。幕末から明治初期の名古屋城下図をいくつか残している。
高力種英(不明-不明)こうりき・たねひで
猿猴庵の一族と思われる。『張州英画譜』の著書がある。
小田切春江(1810-1888)おだぎり・しゅんこう
尾張藩士。別号に歌月庵喜笑がある。猿猴庵に師事し、多くの作品を残している。
森玉僊[高雅](1791-1864)もり・ぎょくせん[たかまさ]
猿猴庵との関係は明らかではないが、『尾張名所図会』の挿絵や団扇絵に用いた画題には共通するものが多い。別号高雅。
小寺玉晁(不明-不明)こでら・ぎょくちょう
尾張藩の陪臣。諸芸に秀でており著作も多い。絵は森玉僊(高雅)に師事し、神谷三園や細野要斎ら学者たちとの交流も多い。猿猴庵との直接の関係は不明だが、猿猴庵の蔵書を転写した『諸家随筆集』や『見世物雑誌』のように傾向の似た著作を残している。
貸本屋・大惣 かしほんや・だいそう
明和4年から明治31まで続いた名古屋の貸本屋で、質・量ともに優れた蔵書を誇り、名古屋のみでなく、江戸の文化人などにもその名を知られた。猿猴庵は、主にその後半生に、大惣の依頼で絵入本を著した。ただ、猿猴庵の著作の多くが大惣本として伝わっているが、伝来の状態からみて、猿猴庵の没後に大惣に入ったと思われるものも多い。
尾張(4)-画人伝・INDEX