松原三五郎「河畔の月」
大阪における本格的な洋画の先駆者は山内愚僊、松原三五郎の二人といえるが、山内愚僊が朝日新聞社につとめ、積極的には絵画指導を行なわなかったと思われる反面、図画教師をつとめるかたわら私塾を開いた松原三五郎は、多くの洋画家を育成し、大阪洋画壇の黎明期を形づくったといえる。
松原三五郎(1864-1946)は、備前岡山藩医の子として生まれ、岡山中学在学中に絵で身を立てる決意をして3年で中学を中退、上京して五姓田芳柳、ワーグマン、渡辺文三郎に洋画を学んだ。明治17年に帰郷して岡山師範学校の教諭となり、その翌年私塾「天彩学舎」を開設した。全盛期には入塾者が150名を越えるほどの盛況で、ここで鹿子木孟郎、満谷国四郎、中川八郎らを教えた。
明治22年、岡山私立教育品博覧会に「天彩学舎」の門人の作品が出品されると、岡山の図画教育の優秀さが話題となり、明治23年、松原は大阪府の要請を受け、大阪師範学校の図画教師として赴任した。私塾「天彩学舎」は天王寺の自宅に移され、ここでも多くの門人を集め、やがて西日本の洋画教育の拠点となった。
明治37年教職を辞し、私塾を「天彩画塾」と改名してからも多くの門人を育てた。大正14年には41年にも及ぶ活動の末同塾を閉じたが、『天彩余光』によると、同塾は岡山時代から数えて1257名の子弟を育成したという。
松原三五郎(1864-1946)まつばら・さんごろう
元治元年岡山生まれ。備前岡山藩医の子。岡山中学中退後、上京し五姓田芳柳、ワーグマン、渡辺文三郎に学んだ。明治17年帰郷して岡山県師範学校の教師となり、翌年天彩学舎を開設。明治23年大阪府師範学校の図画教師として赴任。私塾も自宅の天王寺に移転した。明治25年山内愚僊らと洋画展を開催。明治27年第1次関西美術会展を、明治29年第2次関西美術会展を開催し、明治34年京都で関西洋画会(第3次)を結成し委員となった。明治35年第8回新古美術品展で3等賞。同年関西美術会批評会展で2等賞。明治37年教職を辞して私塾を天彩画塾と改名し、大正14年に閉塾するまで洋画教育につとめた。昭和2年、83歳で死去した。
大阪(101)-画人伝・INDEX
文献:京都洋画の黎明期、油絵の大阪 : 商都に生きた絵描きたち、浅井忠と関西美術院展