森派二代目となった森徹山には4人の実子がいたが、男子2人は妻の実家である京仏師田中家の養子となり森家は継がず、門人の森一鳳(1798-1871)が、娘2人のうちのひとり柳の婿養子となり三代目を継いだ。一鳳は、円山応挙風を大坂に伝えた義父徹山の写生的な志向を保ちながら、叙情的で軽妙な傾向を加味した洒脱な画風を確立した。
また、一鳳と同様に徹山の養子となった森寛斎(1814-1894)は、森派と画系的、姻縁的にもつながりのあった円山派の画家として明治期の京都で活躍した。ほかに徹山の門人としては、行本珉山、和田呉山、山本溪山、蒲生鳩峰らがいる。
森一鳳(1798-1871)もり・いっぽう
→森派を継いで幕末期の大坂画壇で活躍した森一鳳
森寛斎(1814-1894)もり・かんさい
→森寛斎と山口の門人
行本珉山(1814-不明)
文化11年生まれ。大坂の人。名は宗俊、字は孚明。号は珉山、応言。森徹山に画を学び、師風を墜とさず謹細精妙な画風を持つと評された。住居は北久宝寺町。安政3年における在世は確認できるが、詳しい事歴は不明。
和田呉山(1800-1870)
寛政12年生まれ。大坂の人。名は弘毅、俗称は房吉。号は呉山、月心、空相、金剛窟、海雲、無雲、阿字坊、晩年。摂州三田藩士の子孫で、大坂曽根崎で生まれ、のちに淀屋小路に移った。幼少の頃から画を好み、森徹山に師事し人物花鳥を描いた。壮年の時、相次いで師の妻女の逝去にあい仏門に入って空相、月心と称した。同僚の僧は晩年の出家を卑称して晩年坊主と呼んだが、自ら甘受し晩年とも号した。安政元年、70歳で死去した。
大阪(10)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大坂画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画、大阪の日本画