森派の基礎を築いた森狙仙には雄仙という実子がいたが、なぜか雄仙は兄周峰の養子となり、その代わりに周峰の実子徹山が狙仙の養子となり森派を継いだ。徹山が16歳だった寛政2年に刊行された『浪華郷友録』にはすでに狙仙の子と記されていることから、それ以前に狙仙の養子になっていたと思われる。
また、徹山が21歳だった寛政7年には但馬香住の大乗寺客殿に障壁画を描いており、この大乗寺客殿の一連の作品が円山応挙とその門人たちによって作成されたものであることから、これ以前には応挙の門人となっていたことがわかる。その後、徹山は応挙門下十哲に数えられるような存在となった。
森家と円山家は姻戚関係にもあり、徹山と応挙の子応瑞は、それぞれ京仏師田中家の娘ゑんと幸を妻に迎えている。のちに円山家では、応瑞が実弟応受の子応震を三代目として養子に迎えたが、天保9年に応震が49歳で没したため、徹山が円山家の後見となり円山派を盛り立てたという。
徹山の画風は、実父周峰から学んだ狩野派にはじまり、養父狙仙から引き継いだ森派の動物描写法に円山派の写実的描写を加味し、さらに独自の情緒的表現を合わせるなど、きわめて多彩で、西洋画や長崎派などの影響を受けたと思われるものもある。
森徹山(1775-1841)もり・てつざん
安永4年生まれ。大坂の人。名は守真、字は子玄または子真、通称は文蔵。号は徹山。実父は森周峰だが、森狙仙の養子となり森派を継いだ。円山応挙の門人となり、寛政7年には但馬香住の大乗寺に障壁画を描いた。熊本藩主細川斉玆の御用をつとめ、文政9年には一代限御絵師として大坂在住のまま熊本藩に召し抱えられ、天保3年以降禁裏御所や仙洞御所に絵を調進し、天保年間には本願寺小寝殿の杉戸を描くなど貴顕の御用もつとめた。応挙の子である応瑞、京仏師の田中家らと姻戚関係にあった。天保12年、67歳で死去した。
大阪(08)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人