近世大坂画壇の胎動期、狩野派系の画家たちがその形成に大きな役割を果たした。主は画家としては、橘守国、小柴守直、牲川充信らがおり、彼らはみな狩野探幽門下の鶴沢探山の門人で、なかでも橘守国(1679-1748)の活躍は顕著だった。
当時の大坂画壇における画の支持者は、進取の気風をもった町人で、江戸中期の出版文化の隆盛の影響もあり、一般市民向けの平易で分かりやすい啓蒙書の刊行の需要が高まっており、多くの画家たちが絵本類の出版を手掛けていた。
守国も正徳4年(1714)に『絵本故事談』を刊行して以来、次々と絵本を出版した。はじめは故事や百科事典的な他人の著述に絵を添えるものだったが、『繪本寫寶袋』(掲載作品)のように自ら著述して描くようになり、20余種の絵本類を刊行して画名を高めた。
また、画学者のために粉本不足を補おうと、自ら狩野派や土佐派の古画を模し画手本として出版した。しかし、狩野家の粉本となる『運筆麁画』を刊行するに至り、狩野派から師の探山に苦情が来て、やむなく破門されたという。
細密な画風を得意とし、特に版刻の密画は守国に始まるとされる。版刻画家と卑称されても意に介さず、後進の育成にもつとめ、守国の子・保国や弟子の酢屋国雄(橘国雄)らも多くの絵本類を手掛けた。
橘守国(1679-1748)たちばな・もりくに
延宝7年生まれ。大坂の人。名は守国、または有税、有税子。号は後素軒。俗称は惣兵衛、完兵衛、または弁次。本姓は楢村、または楢林。鶴沢探山の門人。著書に『絵本故事談』『唐土訓蒙図彙』『画典通考』『繪本寫寶袋』『扶桑画譜』『絵本直指宝』『運筆麁画』など多数ある。寛延元年、70歳で死去した。
橘保国(1717-1792)たちばな・やすくに
享保2年生まれ。大坂の人。畳屋町に住んだ。名は保国。号は秋筑堂、後素軒。俗称は大助。橘守国の子。父に学び、法眼に叙された。著書として『絵本詠物選』『絵本野山草』がある。寛政4年、76歳で死去した。
橘国雄(不明-不明)たちばな・くにお
大坂の人。俗称は酢屋平十郎。号は皓芳斎。橘保国に学んだ。質朴方正の隠者で名利を好まず、そのため知る人も少なかったという。著書に『挹芳斎雑画』『毛詩品物図攷』『絵本梅の甍』『絵本千里友』などがある。
橘保春(1750-1816)たちばな・やすはる
寛延3年生まれ。名は保春。橘保国の養嗣子となり、保国に学んだ。詳しい経歴は不明。文化13年、66歳で死去した。
橘守行(1751-1804)たちばな・もりゆき
宝暦元年生まれ。名は守行。俗称は左近。橘保国の門人とされるが経歴は不明。文化元年、53歳で死去した。
小柴守直(1706-1762)こしば・もりなお
宝永3年生まれ。京都の人。名は守直。号あるいは俗称は隼人、探春斎。大坂の北久太郎町に住み、画を鶴沢探山に学び、山水人物花鳥などを描いた。門人に小柴景山、越鳥斎、竹下一翁、冨尾由尚、並岡耕好斎らがいる。宝暦12年、56歳で死去した。
小柴景山(不明-1801)こしば・けいざん
大坂の人。名は守典。別号に幽探斎がある。小柴守直の門人でのちに養嗣子になったと思われる。享和元年死去した。
越鳥斎(不明-不明)えっちょうさい
大坂の人。俗名は山本信厚。号は越鳥斎。小柴守直の門人。残っている画手本は英一蝶や耳鳥斎の作風に近い。18世紀中頃に活動した戯画作者の耳鳥斎や鉄鳥斎と何らかの関係がある絵師だと推測される。
牲川充信(不明-不明)にえかわ・みつのぶ
大坂の人。号は櫟同、櫟同斎。鶴沢探山の門人。吉村周山の師。大坂の吉志部東村にあった大庄屋の中西家に「秋草図襖絵」が残されている。享保(1716-1735)頃に活動したと思われる。
林幽甫(不明-1770)はやし・ゆうほ
大坂の人。名は幽甫。号は一鷺庵。鶴沢探山の門人。山水人物を描いた。明和7年死去した。
林幽篤(不明-1819)はやし・ゆうとく
大坂の人。一説には林幽甫の息子という。文政2年死去した。
蝶楊堂(岡本)幽谷(不明-不明)
鶴沢探山の門人と思われる。安永6年刊『難波丸網目』には門人として花屋清兵衛(森如閑斎か)、櫛橋藤蔵(森陽信か)、森狙仙の3人の名が記されている。
大阪(01)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、近世の大阪画人