江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

琉球王国最後の宮廷画家・佐渡山安健(毛長禧)

佐渡山安健「花鳥図」沖縄県立博物館・美術館蔵

佐渡山安健(毛長禧)は、王朝時代最後の絵師として活躍した。父の佐渡山安懿(毛光山)は三司官毛光国佐渡山親方安春の弟で、書家であり漢学者だった。名門の子として生まれた安健は、幼いころから当時の画家の第一人者・小橋川朝安(向元瑚)らから手ほどきを受けたと思われ、1833年に王命により「花鳥図」を描き、種々の品を賞賜されたという記録が残っている。

宮廷内での評判は高く、王府の依頼により、第18代尚育王らの御後絵を描いたのをはじめ、剥落した歴代国王の御後絵を描き替えるなど、重要な仕事を多く担当した。また、花鳥画も得意とし、好んで描いている。一人でこれほどの画業がある画家はまれだが、現存する作品は少なく、沖縄県立博物館・美術館所蔵の「花鳥図」や個人所蔵の「仲田青毛の図」などがわずかに残っているだけである。

佐渡山安健(1806-1865)
1806(文化3)年首里生まれ。唐名は毛長禧。童名は真三郎。漢学者・佐渡山安懿の六男。名門の子として生まれ、幼いころから屋慶名政賀(呉著温)小橋川朝安(向元瑚)に絵画を学んだ。1828年、23歳の時に王命により花鳥画を描いて褒賞を受けたのをはじめ、1833年には馬図、花鳥図、虎図などを描き賞賜された記録がある。また同年黄冠に叙されている。宮廷内での評判は高く、その後多くの依頼を受けて描いている。1837年以後は専ら国王の御後絵の制作に従事し、尚円王以下各王の御後絵のほとんどを描いた。1846年にフランス艦が来航した際には、王命により仏郎西人之図を描いている。1865年、59歳で死去した。

佐渡山安懿(1759-1827)
1759(宝暦9)年首里生まれ。漢学者。唐名は毛光山。佐渡山安健の父。佐渡山安因の二男。1786年黄冠に叙せられ、1798年には同年創設された真和志平等学校所の中取に任命された。その後、兄・佐渡山安春の与力として1801年と1810年に薩摩に渡った。この時に薩摩藩主の島津斉宣や島津斉興、今和泉家の島津忠厚らの御前で唐字をしたため褒賞を受けるなど、薩摩滞在中に何度も同様の記録が確認できる。1827年、68歳で死去した。

佐渡山安豊(1852-1899)
1852(嘉永5)年首里生まれ。唐名は毛永保。竹庭と号した。佐渡山安健の孫。佐渡山安宣の長男。祖父と小波蔵安章(毛文達)に画法を学び、花鳥画、人物画を得意とした。1881年には県庁の御用掛となり製図職をつとめた。三線もよくした。1899年、47歳で死去した。

沖縄(9)-画人伝・INDEX

文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術沖縄の芸術家