江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま兵庫県を探索中。

UAG美術家研究所

早世した逸材・中原芳煙と中央画壇を離れた竹田霞村

中原芳煙「月下三鹿図」

邑智郡都賀行村(現島根県美郷町)生まれの中原芳煙(1875-1915)は、東京美術学校日本画科を首席で卒業し、将来を嘱望されながらも病を得て帰郷、中央画壇に戻ることを望みながらも39歳で早世した。また、神戸郡下横村(現出雲市下横町)生まれの竹田霞村(1884-1955)も、東京美術学校日本画科で下村観山に学び秀才の誉れ高かったが、当時の日本画壇間の抗争を嫌い、会派に属さず文展などにも出品することはなく、33歳の時に父の病報を受けて帰郷、以後地元に住み中央画壇に出品することはなかった。

中原芳煙(1875-1915)
明治8年邑智郡都賀行村生まれ。鉄山を経営していた中原源吉郎の二男。本名は佐次郎。島根県第二尋常中学校卒業後、明治29年東京美術学校に入学し、川端玉章に師事した。在学期間、明治32年の美術学校生徒成績品展覧会で一等褒状を受賞、明治33年日本絵画協会第9回連合絵画共進会に出品するなど、美術学校在学中から頭角をあらわした。明治34年東京美術学校日本画科を首席で卒業、島根県立中学校教諭ならびに師範学校教諭に任じられたが、病のため辞職。明治35年第12回連合絵画共進会で一等褒状を受けた。明治37年宮内省に奉職し正倉院御物の整理を担当、明治38年から43年まで大村西崖が設立した審美書院に勤務した。明治40年第5回内国勧業博覧会に出品、ほかに巽画会、美術研鑽会、帝国絵画協会などにも出品した。大正3年結核を患って帰郷し静養につとめていたが、翌4年、39歳で死去した。

竹田霞村「紅白牡丹」

竹田霞村(1884-1955)
明治17年神戸郡下横村生まれ。竹田門太郎の長男。本名は豊太郎。別号に水鶏舎、悦々、大愚がある。幼いころから画才に恵まれ、杵築中学校に在学中から逸材と評価された。明治37年東京美術学校に入学し、下村観山に学んだ。在学中から校内水彩画展で第一席となるなど秀才の誉れ高かった。卒業後も観山、川端玉章に師事し制作を続けたが、当時の日本画壇内における旧派、新派間の抗争を嫌い会派に属さず、文展などにも出品しなかった。大正5年、33歳のとき、父の病報をうけて帰郷、その後も郷土で制作を続けたが、中央画壇に出品することはなかった。昭和2年頃、霞村を支持する協力者が集まって高松霞村会が結成され、同会が主催となって出雲市今市の片岡で個展が開催された。さらに、昭和6年に松江市の興雲閣で、昭和29年に高松小学校で個展を開いている。昭和30年、72歳で死去した。

島根(15)-画人伝・INDEX

文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

  • B!

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...