江戸後期から全国的な流行をみせた南画だったが、明治中頃になると急速に衰えていった。その要因としては、南画理解に不可欠な漢詩の素養が、時代の推移とともに一般的になくなってきたことや、絵画鑑賞が床の間から展覧会へと移行したことなどがあげられる。しかし、もっとも大きな影響を与えたのは、明治20年代に起こった岡倉天心やフェノロサが唱えた国粋主義による南画への圧迫だったといえる。旧態依然とした南画は「つくねいも山水」と揶揄され、新しい日本画運動の波に飲まれていったのである。
衰退する南画を復興させようと、田能村直入、富岡鉄斎らが、明治29年に日本南画協会を結成して、南画家の奮起をはかろうとしたが、ほとんどの南画家が新時代に即した南画を創り出すことはできなかった。この日本南画協会も明治34年の第8回を最後に有名無実の存在となった。その後を継いだのが、直入の門人である田近竹邨だった。当時、京都南画界の重鎮として活躍していた竹邨は、大正10年に東京の小室翠雲らとともに日本南画院を結成、京都、大阪、東京の南画界の再結束をはかろうとするが、結成の翌年、58歳で没してしまう。
竹邨が注目されるようになったのは、文展によってである。明治40年に始まった文展は、横山大観らの「新しい日本画」を目指す新派と、南画などの旧派が対立しており、新派の勢力が強く、旧派は押され気味だった。そのような状況下にあって、旧派に属する竹邨は、第2回・3回文展で連続して三等賞を受賞。さらに5、6、7、8回展でも褒状を受け、衰弱しつつあった南画界のなかでひとり気をはいた。
竹邨が目指したものは、時風に合った奇抜な創出ではなく、古法に学んだ穏健な革新だった。師の直入はもとより、その師の田能村竹田や帆足杏雨ら、郷土の先人たちの画法を積極的に取り入れ、さらにそれを進展させた。南画の技法を近代日本画の画面に活かすことで、新しい南画の可能性を模索したのである。
田近竹邨(1864-1922)
元治元年竹田生まれ。国学者・田近陽一郎の二男。名は岩彦。幕末期勤皇の志士だった父から薫陶を受け、学を修めていった。幼いころから画才に優れ、淵野桂僊について学び、のちに京都に出て田能村直入に師事した。直入の世話により入学した京都府画学校で本格的な画学習を開始、のちに直入が創立した南宗画学校の教授となった。明治28年内国勧業博覧会で褒状、明治31年全国絵画共進会で四等銅印、明治38年には再度内国勧業博覧会で褒状を受けた。明治41年文展三等賞受賞、以降大正3年まで毎年同展で入賞を続け、京都南画壇での地位を確固たるものとした。大正10年、小室翠雲らと日本南画院を京都に創設し、中心的役割を果たしたが、翌大正11年、58歳で死去した。
大分(25)-画人伝・INDEX
文献:大分県の美術、大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、田近竹邨七十年祭遺墨展、大分県立芸術会館所蔵作品選