豊後出身の美人画家としては、西国東郡真玉町の吉原真龍(1804-1856)があげられる。真龍は文政期頃に京都に出て三畠上龍に入門し美人画を学んだ。京都を中心に活躍し、嘉永2年には宮中への出入りを許され、法橋に叙された。しかし、幕末の騒然とした京都を避け、嘉永6年には宮中画家を辞して国東に帰郷、その後は郷里で風月を楽しむ自適の日々を送った。京都での門人および帰郷後に教えた門弟の数は100名を越え、なかでも如龍、賀来木龍、大庭春龍、神田単龍らが高弟とされる。
真龍の師である三畠上龍(不明-不明)は、江戸後期の京都にあって、活躍期は少しずれるが、祇園井特と人気を二分した美人画家だった。井特が、女性の顔をリアルに描き、安易に美化することを拒んだのに対し、四条派の岡本豊彦に学んだとされる上龍は、四条派の花鳥表現を女性の衣装に取り入れ、華麗な画風で人気を博した。上龍が確立した美人画様式は、幕末から明治の京都画壇に大きな影響を与えた。
真龍の画風は、上龍の美人画様式を忠実に継承しながらも、真龍独自の色彩感覚とのびやかな描線を加えた優美で品格を漂わせるものだった。こうした真龍風の美人画は、帰郷後の門人たちによって描かれ、その期間はごくわずかだったが、幕末の国東地方に、京風美人画のちょっとしたブームをもたらした。
吉原真龍(1804-1856)
文化元年豊後国西国東郡真玉村生まれ。名は信行、通称は与三郎。別号に玉峰、桃隠、臥雲などがある。幼いころから書画を好み、仲間と戯れるのを好まなかったという。文政期頃に京都に出て三畠上龍に入門し美人画を学んだ。以後は肉筆の美人風俗画を専門に描き一家を成した。嘉永2年、宮中への出入りを許され、法橋位を得た。嘉永6年以降は真玉に帰り、同地で門人の育成につとめた。安政3年、51歳で死去した。没後の安政5年、法眼に叙された。
三畠上龍(不明-不明)
京都の人。天保期(1830-1844)を中心に活躍した。字は真真。別号に乗龍、襄陵がある。四条派の岡本豊彦に学んだとされる。四条派風の花鳥画を美人画の衣装に大胆に取り入れ、華麗な美人画様式を確立した。真龍ら多数の弟子によって、上龍風の美人画は明治に至るまで京都では大きな影響を与えた。
如龍(不明-不明)
京都の人。姓は野畑とも伝えるが定かではない。幕末期に活躍した。画を吉原真龍に学び、真龍によく似た美人画を多く描いた。
神田単龍(1821-不明)
文政4年東国東郡豊崎村生まれ。画を吉原真龍に学び、美人画を描いた。
大庭春龍(不明-不明)
出生地は不詳。真玉町にある吉原真龍の墓石に門人として名を刻まれている。真龍の画風を忠実に受け継いだ作品を残している。
大分(21)-画人伝・INDEX
文献:大分県文人画人辞典、大分県画人名鑑、大分県立芸術会館所蔵作品選、大分県立芸術会館所蔵名品図録、京の美人画展