新潟県古志郡上組村(現在の長岡市)に生まれた川上四郎(1889-1983)は、長岡中学校を卒業後に上京、東京美術学校西洋画科に入学して藤島武二らに学んだ。上級生に岡本一平、池辺鈞、藤田嗣治、田中良らが、同級生には牧野虎雄、河目悌二、平澤文吉らがいた。同じ童画の道に進んだ河目とは特に親しく、終生親交が続いた。
同校卒業後は研究科に進んだが、それを中断して静岡県の榛原中学校に図画教師として赴任、実科女学校と教員養成所の教師も兼任したが、榛原中学校に内紛が起こり、教頭と対立して校長の後を追って同校を退職、東京に戻って美術学校で同級生だった河目悌二と平澤文吉が借りていた家にころがり込んだ。
大正5年、共同印刷につとめていた平澤の紹介で児童雑誌社のコドモ社に入社し、編集絵画部担当として「コドモ」や「良友」に絵を描くようになった。当時は、近代的価値観に立った児童文化運動が興っており、各社から「赤い鳥」「金の星」「コドモノクニ」などの児童雑誌が次々と創刊され、コドモ社からも大正9年に児童雑誌「童話」が創刊された。
川上はその前年にコドモ社を退社して画業に専念していたが、「童話」が創刊されると専属画家として携わり、表紙絵、口絵、挿絵、飾絵などに取り組んで人気を博し、童画家としての名を高めていった。
大正15年に「童話」が終刊になると、「子供之友」「赤い鳥」など各誌に描くようになり、その一方で、昭和2年、初山滋、武井武雄、岡本帰一、深沢省三、村山知義、清水良雄らとともに、児童画の芸術的地位を高めるために童画という名称をつくり「日本童画家協会」(第1次)を結成し、童画家第一世代として活躍した。
戦時中は郷里に近い越後湯沢に疎開し、以後も同地に住んだ。湯沢町では、平成9年から毎年「川上四郎記念越後湯沢全国童画展」が開催されており、川上の原画作品の多くが湯沢町公民館に保管されている。
川上四郎(1889-1983)かわかみ・しろう
明治22年新潟県古志郡上組村(現在の長岡市)生まれ。新潟県立長岡中学校卒業後、明治41年東京美術学校西洋画科に入学。大正2年同校を卒業し研究科に進んだ。静岡県立榛原中学校で図画教師をつとめ、大正5年コドモ社に入社し「童話」の挿絵を担当した。昭和2年武井武雄、初山滋、深沢省三らとともに第一次日本童画家協会の結成に参加し、翌年第1回展を開催した。昭和17年第2回野間挿画奨励賞を受賞。戦後は、越後湯沢に居を移し、挿画を続けた。昭和37年第2次日本童画家協会第1回展に参加、以後11回展まで毎回出品した。昭和45年久留島武彦文化賞を受賞。昭和58年、94歳で死去した。
河目悌二(1889-1958)かわめ・ていじ
明治22年愛知県碧海郡刈谷町(現在の刈谷市)生まれ。県立第二中学校を卒業後、明治41年東京美術学校西洋画科に入学。同期に川上四郎らがいた。大正2年同校卒業後は「トモダチ」で挿絵の仕事に携わる一方で、大正9年小林商店(現在のライオン株式会社)に入社。子ども向けの口腔衛生の普及事業を展開していた同社の広告の仕事に携わった。そのかたわら「良友」「子供之友」「観察絵本キンダーブック」「苦心の学友」「少年倶楽部」などに作品を発表した。昭和12年に小林商店を退社後は、童画家として専念し、戦中戦後を通じて生活感あふれる画風を各誌で展開した。昭和33年、68歳で死去した。
新潟(34)-画人伝・INDEX
文献:川上四郎童画大集、越佐の画人、越佐書画名鑑 第2版