新潟神明宮の神官の子として生まれた行田魁庵(1812-1874)は、幼いころから絵を好み、新潟の町絵師・志賀北洋に手ほどきを受けたのち、一ノ木戸村の神明宮神官で従兄にあたる行田雲濤のもとで絵を学んだ。
雲濤は魁庵の画才を認め、自らの師である京都の山本梅逸に入門させた。京都では池田陶所、梅逸の養子・山本梅屋、名草逸峰、頼三樹三郎らと交流し、40歳の時に修行を終えて帰郷、その後は新潟町の中心的な画人として活躍するとともに、門弟の育成につとめた。
行田魁庵(1812-1874)なめた・かいあん
文化9年西蒲原郡神明町(現在の新潟市)生まれ。名は正隆だったが、明治5年に県令楠本正隆が着任したため正泰と改名した。別号に北崖がある。新潟神明宮の神官の家に生まれ、宮司となり、和泉を名乗った。はじめ志賀北洋について学び、その後、三条の行田雲濤のもとで学んだのち、雲濤の京都の師・山本梅逸のもとに修行に出た。ここで「魁庵」の号を与えられた。嘉永4年帰郷、翌年には新潟奉行の川村修就にその肖像画を納めている。明治7年、62歳で死去した。
志賀北洋(不明-1868)しが・ほくほう
蒲原郡大野郷屋村(現在の新潟市)生まれ。餅屋・樋口平助の二男。新潟町の織物商・志賀家の婿となり、佐五郎と称した。絵師だった長兄の玉水に学んだと思われる。花鳥画を得意とし、行田魁庵の師だったことが知られている。慶応4年死去した。
伊丹芳春(1815-1884)いたみ・ほうしゅん
蒲原郡大原新田村(現在の新潟市)生まれ。名は石松。行田魁庵に師事し、花鳥、人物を得意とした。明治17年、70歳で死去した。
新潟(16)-画人伝・INDEX
文献:越佐の画人、新潟・文人去来-江戸時代の絵画をたのしむ、にいがた幕末の絵師、越佐書画名鑑 第2版