佐渡国相川の郷宿を営む家に生まれた石井夏海(1783-1848)は、幼いころから画を好み、15歳の時に地元の絵師・吉村蘭秀に学び、ついで江戸に出て紀南嶺、谷文晁の門に学んだ。また、司馬江漢に天文学、測量術、洋風画、蠟画などの技術を学び、大田南畝に狂歌・戯作を学ぶなど、広範囲な勉学に励んだ。
帰郷後、33歳の時に佐渡奉行所地方絵図師となり、家業の郷宿は弟に譲って独立し、田中葵園の「佐渡志附録図」の作製描写を担当したり、佐渡奉行の委嘱により「相川年中行事図」を描いたり、絵図師として天文・測地に従事したりして、その才能と技能を存分に発揮した。
曲亭馬琴、式亭三馬、酒井抱一ら多くの江戸の文人と社会的、文学的に交流し、「佐渡相川の隣は江戸」という意識を持っていた人物だと伝わっている。自らも戯作を手がけ、佐渡の歴史や伝承を題材にした『小万畠双生種蒔』の稿本が残っているが、刊行には至っていない。
夏海の子・石井文海(1809-1849)も、幼いころから父に画を学び、15歳で佐渡奉行所地方絵図師見習となった。天保元年には、夏海の協力を得て「相川年中行事絵巻」を描き、天保8年には、伊能忠敬の測量をもとにした「佐渡一国全図」を2年かけて夏海とともに完成させた。
ほかに、近世から幕末にかけて活躍した佐渡の画人としては、谷文晁門で文海と双璧と称された加藤文琢、京都で松村景文に師事して弘化・嘉永年間に活躍した本間凌山、江戸に出て鈴木鵞湖に学んだ酒井珠津、京都の横山清暉に学び慶応から明治初頭まで活躍した山口湖門、春木南湖に学び文化・文政期に活躍した丸岡南涛、京都で四条派に学び天保年間に活躍した渡辺魯山らがいる。
石井夏海(1783-1848)いしい・なつみ
天明3年佐渡国雑太郡相川生まれ。幼名は秀次郎、のちに静蔵。別号に安瀾堂がある。江戸に出て、画を紀南嶺、谷文晁に、学問を大田南畝に、天文・地理・測量術・西洋画法を司馬江漢に学んだ。文政12年地方御役所絵師となった。曲亭馬琴、式亭三馬、酒井抱一らと親交があった。佐渡の歴史や伝承を題材にした戯作『小万畠双生種蒔』の稿本が残っている。狂歌も詠んだ。嘉永元年、66歳で死去した。
石井文海(1809-1849)いしい・ぶんかい
文化元年佐渡国雑太郡相川生まれ。石井夏海の子。名は八郎、のちに彩助。別号に彩瀾堂、小瀾がある。紀南嶺に学び、佐渡風景、人物像をよく描いた。文政7年地方御役所絵師見習となり、天保8年に佐渡全島を歩き「佐渡一国山水図」を描き、天保13年には、新発田収蔵の協力を得て「佐州一国海図」を制作した。ほかに、「佐渡先哲仙筵図」「相川全市図」などが残っている。嘉永2年、45歳で死去した。
加藤文琢(不明-不明)かとう・ぶんたく
佐渡国潟上村生まれ。能太夫本間右京の三男。本姓は本間で相川の加藤家を継いだ。名は元純、貞正、通称は武右衛門。別号に素堂がある。谷文晁に画を学んだ。佐渡代赭石の発見者とされ、金北山に登り妙見山のふもとで岱赭の原石を発見し、下戸町の幅野今八という者に製法を教えたと伝わっている。天保年間に死去したとみられる。
本間凌山(1795-1854)ほんま・りょうざん
寛政7年佐渡国雑太郡相川生まれ。相川の今井家に生まれて両津市夷町の本間家を継いだ。名は達、字は子誠、居を水雲亭と称し、水雲居士と号した。別号に丹岳がある。紺屋の形附などを家業とした。京都に出て松村景文に画を学び、3年ほどで帰郷し夷で画塾を開いた。弘化4年に北方探検家・松浦武四郎が佐渡を訪れた時に円山溟北らと名所を案内した。晩年には奉行の命で久知長安寺所蔵の雪舟の絵を模写し、その後画風が一変したという。安政元年、60歳で死去した。
酒井珠津(1826-1906)さかい・しゅしん
文政9年佐渡国小倉村生まれ。家業は白山神社の神職。名は貢、通称は大二郎。初号は珍観。絵師だった父・雲峯の影響を受けて画を志し、江戸に出て鈴木鵞湖に入門した。また、国学漢籍は成島筑山に学んだ。帰郷後は画業に専念していたとみられるが、明治15年からは家業の神職を継ぎ、そのかたわら村絵図の制作などにも携わった。明治39年、81歳で死去した。
山口湖門(1838?-1875)やまぐち・こもん
天保9年頃生まれ。夷の人。通称は利八。初号は金峰。京都に上り横山清暉に学び3年後に帰郷した。明治8年、37歳で死去した。
新潟(13)-画人伝・INDEX
文献:佐渡の美術、佐渡相川郷土史事典、越佐書画名鑑 第2版