江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

大黒天1000枚を描くことを請願した画僧・古磵

古磵「袋かつぎ大黒天図」

かつて天平文化、あるいは中世文化の舞台となった南都・奈良だが、近世・奈良に描かれた絵画作品を見出そうとすると、その多くが京都をはじめとした来遊画人の手によるものである。

奈良の諸寺に作品を残した画人としては、室町時代に唐招提寺総持坊に住んでいた画僧・鑑貞(不明-不明)がいる。法眼に叙せられたと伝わっているが、詳細は不明である。作品は、旧蜂須賀家蔵「山水図」、東京芸術大学蔵「山水図」など小品が数点確認されており、唐招提寺には、伝来は不明だが「鑑貞」の白文印を押した「山水図」がある。

桃山時代に泉州堺に住んでいた曾我直庵・二直庵父子は、ともに高野山や奈良の諸寺に画跡を残している。直庵の作品としては、高野山宝亀院蔵「鶏図屏風」、照光院蔵「商山四皓」がある。二直庵の作品としては、法隆寺蔵「鷹図」、大徳寺蔵「柏鷹・芦鷺図屏風」が著名で、興福寺蔵「竹に梟・蓮に翡翠」、帯解寺蔵「鷹図押絵貼屏風」なども残っており、當麻寺中之坊書院の障壁画も二直庵筆として知られる。父の直庵同様に高野山とも関係があったようで、高野山宝亀院や西南院にも襖絵が残っている。
参考記事:桃山時代に泉州堺で新たな曾我派を興した曾我直庵

やまと絵住吉派二代の住吉具慶も奈良の地にゆかりがあったと思われ、奈良市山町にある山村御殿と呼ばれる尼寺円照寺に「春郊放牧・田園秋色図屏風」が伝わっており、奈良市法蓮町の尼寺興福院にも「都鄙絵」が収蔵されている。両作品の制作年には20年の開きがあることが確認されている。
参考記事:日光山の絵事に携わったやまと絵住吉派二代・住吉具慶

江戸時代初期の奈良で活躍した画僧・古磵(1653-1717)は、10代はじめに画を学びはじめ、15歳頃から江戸増上寺で20数年に渡り修学したとされる。大和郡山の西岩寺に住み、のちに京都の報恩寺に移ったが、一時薬師寺の地蔵院にいたという。薬師寺蔵「薬師寺縁起絵巻」、浄国院蔵「大経曼荼羅」、また特に著名な東大寺蔵「大仏殿虹梁木曳図」の長巻を残している。

32歳の時に大黒天1000枚を描くことを請願したといわれ、現在知られている古磵作品のおよそ3分の1が大黒天図だという。古磵の描く福神や人物はすべてが笑顔であるが、特に大黒天は福々しい。古磵自賛の作品には「笑面こそが福を招く」とあり、大黒天に込めた思いが伝わってくる。

古磵(1653-1717)こかん
承応2年生まれ。浄土宗の画僧。名は明誉、号は虚舟、または澄蓮社。はじめ江戸増上寺の学僧で、のちに大和郡山の西岩寺に住んだ。宝永2年京都報恩寺の住職となり、晩年は東山の西岩倉に隠棲した。一時薬師寺地蔵院にもいたという。師は海北友雪とも狩野永納とも伝わっており、のちに雪舟に私淑した。縁起絵巻や涅槃図の大幅を描き、特に大黒天図を得意とした。享保2年、65歳で死去した。

奈良(01)-画人伝・INDEX

文献:奈良市史美術編集、大和の近世美術