江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

西洋古典美術の研究を深め仏教美術に回帰した町田曲江

町田曲江「三大門」(三幅)

町田曲江(1879-1967)は、下高井郡中野町(現在の中野市)の雑貨商を営む家に生まれた。少年の頃から、小学校の同級生だった菊池契月、金井一章らとともに渋温泉の児玉果亭に学んだが、家族に画家になることを反対され、17歳の時に菊池契月とともに郷里を出て、契月は京都に残り菊池芳文に師事し、曲江は上京して寺崎広業に師事することになった。

明治30年、契月と別れて上京し広業の門に入った曲江は、広業のいう新しい日本画を模索し、同門の野田九浦とともに白馬会研究所に通い、黒田清輝について洋画の技法も学んだ。明治34年、日本絵画協会・日本美術院共進会で褒状1等を受け、その後も各展覧会で好成績を残し、新派の国画玉成会に参加して精力的に活動した。

一方、日本画と洋画の技法を学ぶなかで、どちらの方向に進むべきかと悩み続け、和田三造、岡田三郎助辻永ら洋画家と頻繁に往来するなかで、さらに西洋美術の伝統を学ぶ必要性を痛感し海外留学を決意、明治43年、31歳の時に渡欧した。

渡欧した曲江は、フランスをはじめ西欧諸国を巡って西洋古典美術を鑑賞し、その伝統や技法を学んだ。パリ滞在中には、仏教美術史研究家のアルフレッド・フーシェ教授の指導を受け、その勧めによって帰国の途中にインドに立ち寄り、仏教美術の遺跡を巡歴し、東洋への回帰、日本画への復帰を決意して大正元年に帰国した。

帰国後は、日置黙仙、常盤大空ら仏教関係者と盛んに交遊し、仏教的な主題の絵画を中心に、文展、帝展、新文展に出品した。

昭和19年、65歳の時に戦火を避けて郷里の中野に疎開し、戦後は推されて信州美術会会長をつとめた。また、中央においては日本画院の再興に尽力し、昭和34年に疎開前に住んでいた千葉県市川市に戻ってからは、千葉県美術協会会長をつとめ、地方文化の振興に貢献し、後進の指導にあたった。

町田曲江(1879-1967)まちだ・きょくこう
明治12年下高井郡中野町(現在の中野市)生まれ。名は春之助。明治29年菊池契月とともに京都に出奔し、内海吉堂に師事、吉堂の紹介で東京の寺崎広業に師事した。白馬会研究所にも通った。明治34年第11回日本絵画共進会で褒状1等。明治40年東京勧業博覧会で1等金牌。同年第1回文展で3等賞を受賞した。国画玉成会の評議員になるが翌年内紛が起こり、寺崎広業、川合玉堂ら純東京派の人物画研究会に参加した。明治43年野田九浦とともに渡仏し、仏教美術を研究して大正元年に帰国した。文展、帝展に出品する一方で、大正6年に九浦らと如水会展をはじめた。昭和19年帰郷し、翌年の第1回全信州美術展に審査員として参加、翌年発足した信州美術会の会長に就任した。昭和34年には千葉県市川市に戻り、千葉県美術協会会長をつとめた。昭和42年、88歳で死去した。

金井一章(1879-1944)かない・いっしょう
明治12年下高井郡中野町(現在の中野市)生まれ。名は忠三。生家は繭糸業を営んでいた。小学校の同級生に菊池契月と町田曲江がいた。渋温泉で児玉果亭に南画の手ほどきを受け、その後上京して川端玉章に師事、東京美術学校日本画科選科に進み、明治35年卒業した。卒業制作が好評で、玉章門下で結成された天真社でも注目された。明治40年東京勧業博覧会に出品したが、同年創設された文展には出品しなかった。明治42年に師の玉章が川端画学校を開設した際には助手として協力した。玉章没後は、町田曲江の勧めで寺崎広業に入門した。昭和初期に満州大連に単身で渡り、大連で多くの画会や展覧会を開催したが、寒気のため神経痛が悪化して帰国、郷里に帰ってからは中野と渋温泉で湯治をしながら絵を描いた。晩年は町田曲江の勧めで千葉県市川市に転居した。画歴は不明な点が多い。昭和19年、64歳で死去した。

長野(45)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第4巻、北信濃の美術 十六人集、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県美術大事典