江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

上伊那の橋本雅邦門下・白鳥白駒と桃沢如水

白鳥白駒「秋景山水図」

信州の画家としては、菱田春草西郷孤月赤羽雪邦のほか、上伊那の白鳥白駒、桃沢如水も開校当初の東京美術学校で学んでいる。白駒と如水の二人は、橋本雅邦の門下生として、北宗画の筆遣いや西洋画的描法などを学び、院展などに出品した。二人とも短命だったが、信州の生家やその近在の旧家を中心に作品が残されている。他に信州出身の橋本雅邦の門人としては、埴科郡五加村の中村杏邨、松本の高橋馬記、小県郡長窪古町の柳沢信邦らがいる。

上伊那郡野口村(現在の伊那市手良)に生まれた白鳥白駒(1871-1916)は、8歳頃から水墨画を描くようになり、16歳で上京して東京英語学校及び東京物理学校で学んだのち、明治22年に東京美術学校が開校すると、西郷孤月、赤羽雪邦らとともに1期生として入学した。しかし、明治25年に兵役のため同校を退学、日清戦争に従軍して各地を転戦した。

明治30年の帰郷後は、地元の手良小学校や中箕輪小学校で絵画指導をつとめるかたわら、帝国絵画協会展、院展などに出品した。37歳の時には、学識や手腕をかわれ箕輪村の助役に就任。上京への夢を持ちつつも郷里に画室を建て、明治から大正へと時代が変わるなか、格調高い作品を制作し続けたが、46歳の時に心臓麻痺のため急逝した。

上伊那郡本郷村(現在の飯島町)に生まれた桃沢如水(1873-1906)は、17歳の時に内国勧業博覧会を観にいくといって上京、そのまま帰らず橋本雅邦の弟子となり絵の道に進み、また、国文学や和歌も学んだ。明治23年に東京美術学校に菱田春草らとともに2期生として入学。在学中は工芸家の香取秀真らと歌会をはじめ、歌誌「うた」も刊行した。

同校卒業後は兵役についたが病のため除隊して帰郷し療養につとめた。翌年再び上京して雅邦のもとで学ぶとともに、俳人の正岡子規を訪ねて直接教えを受け、伊藤左千夫、長塚節らと交流して歌人としても活動した。31歳の時に病が再発し、療養のため三重県津市に移り住み、この地ゆかりの画家である曾我蕭白の研究をはじめたが、病はさらに重くなり、33歳で死去した。

白鳥白駒(1871-1916)しろとり・はっく
明治4年上伊那郡野口村(現在の伊那市手良)生まれ。蟹澤庄蔵の二男。名は駒吉。別号に空谷がある。16歳で上京し、東京英語学校及び東京物理学校に学んだ。明治21年、17歳で箕輪村の旧家・白鳥彦八の養子となった。翌年、東京美術学校が開校となったため1期生として入学、橋本雅邦に師事した。明治28年、25歳で召集され退学。陸軍一等調剤師となり、中国、台湾に渡り従軍生活を送った。その間、従軍生活や現地の風景、風俗などを描いた画帳が3冊残されている。明治30年に帰郷し上伊那郡役所に勤務。明治32年から中箕輪小学校、母校の手良小学校を兼務で図画教師になった。その間、帝国絵画協会展などに出品、明治40年日本美術院展に出品した。明治41年箕輪村の助役に就任。大正5年、45歳で死去した。

桃沢如水(1873-1906)ももさわ・にょすい
明治6年上伊那郡本郷村(現在の飯島町)生まれ。名は重治。別号に桃画史がある。歌名を茂春といい、筆名を三六、三六軒、子脩、無形などといった。明治21年、15歳の時に飯田に出て岡庭塾で英語、漢籍、数学などを学んだ。同友に菱田春草がいた。明治23年、春草とともに東京美術学校に入学。明治30年、日本絵画協会第2回絵画共進会で褒賞第3席。同年美校を卒業して兵役についたが病のため除隊して帰郷、翌年再び上京して正岡子規に師事、伊藤左千夫らと交流して歌人として研鑽を積んだ。晩年には茂春の号で歌人として知られた。また、曾我蕭白の研究をした。明治39年、33歳で死去した。

長野(40)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第3巻、上伊那の美術 十人、郷土美術全集(上伊那)