江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

新しい時代にふさわしい日本画を模索した菱田春草

菱田春草「放鶴」
現存する数少ないアメリカ滞在中に描かれた作品。

下伊那郡飯田町(現在の飯田市)に生まれた菱田春草(1874-1911)は、飯田学校(現在の飯田市立追手町小学校)高等科を卒業後、15歳で画家を志して上京、狩野派の結城正明に1年間日本画の基礎を学び、翌年16歳で前年開校したばかりの東京美術学校に2期生として入学した。上級生には、のちに日本画の革新という同じ道を歩むことになる横山大観、下村観山らがいた。

美術学校に入学した春草は、まず橋本雅邦について狩野派を学び、さらに円山派、大和絵なども研究した。当時の美術学校は、校長の岡倉天心の教育理念のもと、狩野派の橋本雅邦、円山派の川端玉章、やまと絵系の巨勢小石ら、諸派の教授陣が揃い、多様な表現法を学ぶことができた。

さらに、実習では古画の模写や写生に加え「新按」という科目が設定されていた。「新按」とは、個人の工夫によって表現する課題で、古画の模写や写生を活かしたうえで、新しい独自の表現を創出することが求められた。春草らは、この近代的カリキュラムのなか、諸派の伝統的技法はもちろん、西洋絵画の技法や美学・思想を学び、そして自らの創意を高める訓練をした。

卒業後は、帝国博物館による古画模写の事業に従事したのち、母校の嘱託教員となり、自身の研究と後進の育成につとめた。ところが明治31年、岡倉天心が校長職を追われるという、いわゆる「東京美術学校騒動」が起き、春草は、橋本雅邦や横山大観ら多くの教員とともに天心に従って同校を辞職、天心を中心として創設された日本美術院に参加した。

この日本美術院を舞台に、春草は、大観とともに新しい表現方法に挑戦する。それは、輪郭線を極力廃し、色面によって描くという没線描法で、当初は色彩の滲みや混濁を招いてしまったが、必要な線は復活させながら改良につとめ、「王昭君」などの代表作を生み出した。しかし、世間にはまったく理解されず、形も制作意図もぼんやりした「朦朧体」だ、などと揶揄された。以後、春草の苦境は10年近く続くことになる。

明治36年、29歳の時に春草は大観と連れ立ってインドに渡り半年間滞在、ついで翌年にはアメリカ・ヨーロッパへ1年半に及ぶ外遊をした。春草たちの作品は国内では不評だったが、西洋では予想外の高値で売れた。日本画の将来に自信を深めて帰国した春草は、大観と連名で「絵画について」と題した論文を発表し、一層色彩の研究を進めると宣言した。

しかし、国内では春草や大観の絵は売れず、その売り上げに頼っていた日本美術院の運営は崩壊寸前となっていた。そしてついに、日本美術院は茨城県北部の五浦にあった天心の別荘への移転を余儀なくされ、天心はじめ春草、大観、観山、木村武山ら画家4人は、それぞれの家族を連れて東京から移住した。

世の無理解と貧困のなか、春草は五浦でひたすら研鑽を重ね、明治40年に創設された文展に「賢首菩薩」を出品し2等第3席を得た。この作品は、色彩を濁らせずに小さな点を重ねて描いたもので、のちの画家たちにも大きな影響を与えることになった。しかし、この頃には春草の体は病に蝕まれており、真っ直ぐな線が曲がって見えるほどに視力も低下していた。急遽東京に戻った春草は、代々木に移って療養につとめることになった。

病気は慢性腎臓炎と、失明の恐れのある蛋白性網膜炎だった。療養の結果、半年後には制作を再開できるようになり、春草は、代々木周辺の武蔵野の自然から取材した作品を次々と発表し好評を得た。特に、第3回文展に出品して2等賞第1席を得た「落葉」は、批評家からも好意的に受け止められ、ようやく春草の画壇での地位や世間での名声は高まっていった。

しかしその2年後の明治44年、病気が再発してしまう。制作の再開を強く信じて再び闘病生活に入った春草だったが、やがて視力を失い、その後一度も描くことのないまま、同年9月、37歳になる直前に死去した。

菱田春草(1874-1911)ひしだ・しゅんそう
明治7年下伊那郡飯田町(現在の飯田市)生まれ。父は飯田藩士。名は三男治。明治21年飯田学校(現在の飯田市立追手町小学校)高等科卒業。同校では中村不折に数学を習った。翌年上京して結城正明に師事し、東京英語学校の夜学にも通った。明治23年東京美術学校に入学。明治28年同校を卒業、卒業制作の「寡婦と孤児」が教授陣の論争の末、校長の岡倉天心の裁量で最優等となった。同年帝国博物館による古画模写事業に参加。明治29年日本絵画協会の結成に参加。同年日本絵画協会第1回絵画共進会で銅牌第4席。同年東京美術学校の委嘱教員となる。明治30年第2回絵画共進会で銅牌第2席。同年第3回絵画共進会で銅牌第7席。明治31年岡倉天心の東京美術学校の校長辞職に従って同校を退職。同年日本美術院の創設に参加。明治33年第8回日本絵画協会連合共進会で銅牌第1席。同年第9回同展で銀牌第1席。この頃から「朦朧体」と批判を受けるようになる。明治35年第12回日本絵画協会連合共進会で「王昭君」が銀牌第1席。明治36年、横山大観とインドに渡り半年間滞在。同年第15回日本絵画協会連合共進会で審査員、銀牌第6席。明治37年、天心、大観、六角紫水とともに渡米し1年余り滞在、さらに翌年には欧州を回った。明治39年日本美術院が茨城県五浦に移転したため大観らとともに移住。明治40年第1回文展で2等第3席。翌年病のため東京に戻る。明治42年第3回文展で「落葉」が2等賞第1席。明治43年第10回巽画会展で審査員をつとめ、2等銀賞第1席を得て宮内庁買い上げ。同年第4回文展で審査員をつとめ「黒き猫」を出品。明治44年、36歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(菱田春草)

長野(37)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、飯田の美術 十人集、郷土美術全集(飯田・下伊那)〔前編〕、信州の美術、郷土作家秀作展(信濃美術館)、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、長野県美術大事典、美のふるさと 信州近代美術家たちの物語