江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

諏訪部直亭ら信州の児玉果亭の門人

諏訪部直亭「十六羅漢」

渋温泉で作画と教育に専念していた児玉果亭のもとには、多くの弟子入り志願者が集まった。近郊の人たちは子どもに才能の兆しが見えればすぐに「果亭さん」に見てもらい、また、小坂芝田青柳琴僊のように果亭の作品を見て感銘を受けて入門を望むものが、県内だけでなく群馬、新潟からもやってきた。

入門希望者は、まず果亭が描いた四君子(蘭、竹、菊、梅)を手本に、それを通じて絵を学び、仕上げたものだけが弟子として認められた。

主な信州の門人としては、菊池契月、小坂芝田、笹沢櫟亭をはじめ、東京で活動していたが晩年には長野市に戻り、善光寺近くで作画に専念した諏訪部直亭(1868-1940)、果亭に師事したのち上京し着実に南画家としての地位を築いていったが44歳で没した岡田菊僊(1865-1910)のほか、山本凌亭(1865-1938)と蕙田(1891-1953)の父子、丸山雲田(1878-1937)らがいる。

諏訪部直亭(1868-1940)すわべ・ちょくてい
明治元年上水内郡長野村(現在の長野市)生まれ。森豊三郎の二男。本名は茂吉。16歳の時に諏訪部家に養子に入り、明治27年に児玉果亭に師事した。明治39年、39歳の時に日本美術協会展に出品し褒賞3等を受けた。同年京都に遊歴した歳に果亭の師である田能村直入に会い感銘を受け、直入の「直」と果亭の「亭」をとり「直亭」と号するようになった。明治45年日本美術協会会員に推挙された。大正6年、50歳の時に京都に出て、田近竹邨田中柏陰の門に入った。大正8年東京田端に仮寓し、内国勧業博覧会で銀賞、第35回全国特産品博覧会に「十六羅漢」を出品して銀賞を受けた。大正12年、関東大震災に遭い長野市に戻り、以後郷里で作画に専念した。昭和15年、73歳で死去した。

岡田菊僊(1865-1910)おかだ・きくせん
慶応元年下高井郡穂高村和栗(現在の木島平村)生まれ。幼名は工太郎。生家は代々庄屋をつとめた。明治7年、8歳で六合学校に入学。その後も漢籍、国典を学び、詩歌にもすぐれた素質をみせたが、次第に書画に興味を持つようになり、特に飯山の武田雲室の画風に惹かれ、画を描くようになった。その画才が近くの長光寺の挑源禅師の目にとまり、禅師の勧めで24、5歳の頃に児玉果亭の門に入った。明治36年、38歳の時に本格的に絵の勉強をするため上京、明治39年日本美術協会秋季展で3等褒状を受けた。明治42年日本美術協会展で再び3等褒状を受け、着実に南画家としての地位を築いていったが、明治43年、腎臓を患い44歳で死去した。

山本凌亭(1865-1938)やまもと・りょうてい
慶応元年下高井郡穂波村佐野(現在の山ノ内町)生まれ。本名は祐善。明治17年、20歳の時に児玉果亭の門に入った。生家は地主だったが、旅館を営みながら作画した。また、早くから上田町の水野浪越を招いて角間温泉で楽焼をはじめた。明治26年には、果亭がこの窯で「松尾芭蕉翁外六秀」を制作している。明治34年から佐野区長を、大正9年からは村の学務委員をつとめた。昭和13年、73歳で死去した。

山本蕙田(1891-1953)やまもと・けいでん
明治24年下高井郡穂波村佐野(現在の山ノ内町)生まれ。山本凌亭の子。本名は保。早くから父に画を学び、明治30年代になって児玉果亭の門に入った。果亭はその才能を高く評価し、果亭の勧めで上京して小坂芝田に師事し「蕙田」と号した。大正に入り、帝国絵画協会会員に推挙され、各種展覧会で受賞したが、大正6年に芝田が急死したため郷里に帰り、以後この地を離れず、長く穂波村の村長をつとめるなど地域の発展にも尽力した。昭和28年、61歳で死去した。

丸山雲田(1878-1937)まるやま・うんでん
明治11年松本市六九町生まれ。本名は虎雄。明治25年に松本開智学校を卒業。明治28年、松本を訪れた菅原白龍に絵の手ほどきを受け「龍渓」と号した。明治35年、児玉果亭に師事。翌年から約2年間、北安曇郡池田小学校で代用教員をつとめた。大正2年には大平小洲の指導を受けた。大正4年、伊那郡下、岐阜県下、埼玉県北埼玉郡などをまわって作画。大正8年、藤岡亀三郎、新村翠石らと松本美術会を結成した。大正13年、京都に出て極彩色による孔雀などを描いた。昭和2年、松本市蟻ケ崎に居を構えた。昭和12年、60歳で死去した。

長野(28)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第3巻、長野県美術全集 第5巻、信州の南画・文人画、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、 長野県美術大事典