江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

児玉果亭の画系を継いで大成した小坂芝田

小坂芝田「春秋山水図」

小坂芝田(1872-1917)は、上伊那郡小沢村(現在の伊那市)に生まれた。生家は藩政時代からの手習師匠(読み書きを教える寺小屋の師匠)で、曽祖父の慎独斎は能書家で、祖父の永眠は南画を描いていたという。洋画家の中村不折は母方の従兄弟にあたる。

11歳の時に漢詩と書を小室屈山に、南画を丸山素屋に学んだ。この頃すでに「霞嶂」と号して作画活動を行なっており、美術商に色紙、扇面を与えられて5、6銭の画料で絵を描いていたという。

16歳の時に家を出て、児玉果亭に入門し、南画とともに漢詩や書道を学んだ。その2年後の明治23年、18歳で上京し、従兄弟の中村不折と同居して自炊生活を送りながら、浪速画会共進会に出品、褒状2等を受賞して南画家の新人として注目されるようになった。

その後も、日本美術協会展で褒状を受け、宮内省買上になるなど実績を残し、27歳の時に師の果亭から「芝田」の雅号を与えられた。果亭はあえて弟子の号に自分の字を使わず、自身の師である田能村直入のさらに師の近世南画の大家・田能村竹田の「田」を用いている。このことからも果亭の芝田に対する期待の大きさがうかがえる。

明治40年に創設された文展では、審査員問題などで新派と旧派が対立し、旧派である正派同志会に属していた芝田は第1回展には出品しなかったが、翌年の第2回展から出品し、第6回展と第7回展で連続して最高賞の2等銀牌を受けるなど高い評価を受け、画壇での地位を確立していった。

明治44年には上野桜木町に画塾「積翠山房」を開設し、師の果亭と同じように多くの門弟たちを教えた。しかし、その範としていた生涯の師・果亭は、大正2年に72歳で没してしまう。葬儀では多くの門人を代表して、菊池契月とともに弔辞を述べた芝田だったが、その4年後、45歳で師のあとを追うことになった。

師の果亭が、中央での名声を求めずに郷里の渋温泉に留まり作画と教育に専念したように、芝田も45歳で没するようなことがなければ、師に倣い、郷里信州で同様の生活を送ることを望んでいたという。

小坂芝田(1872-1917)おさか・しでん
明治5年上伊那郡小沢村(現在の伊那市)生まれ。小坂利三郎の長男。本名は為治郎。初号は霞嶂。明治16年、小室屈山に漢詩を、丸山素屋に南画を学び、その後児玉果亭に師事した。明治23年上京して従兄弟の中村不折と同居、同年浪速画会共進会で褒状2等を受賞。明治26年第28回日本美術協会展で褒状3等を受賞、明治30年第32回日本美術協会展で褒状2等を受賞。明治31年第33回日本美術協会展で褒状2等を受賞、宮内省買上となった。この頃、師の果亭から田能村竹田にちなんだ「芝田」の雅号を受ける。明治40年東京府勧業博覧会で褒状を受け、明治41年第2回文展で3等12席受賞。明治43年東京府美術及美術工藝展で2等受賞、同年第4回文展で褒状9席受賞。明治44年第5回文展で政府買上、同年上野桜木町に画塾積翠山房を開設。明治45年第48回日本美術協会展2等賞銀牌受賞。同年第6回文展で2等賞受賞。大正2年第7回文展で2等賞を連続受賞。大正6年、45歳で死去した。

※姓の小坂は「おさか」だが、美術史上では「こさか」が使われることが多く、子孫も「こさか」を名乗っている。

長野(27)-画人伝・INDEX

文献:長野県美術全集 第2巻、郷土美術全集(上伊那)、上伊那の美術 十人集、信州の美術、信州の南画・文人画、長野県信濃美術館所蔵品目録 1990、松本市美術館所蔵品目録 2002、長野県信濃美術館所蔵作品選 2002、長野県美術大事典