江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

葡萄和尚と称し後半生を信州諏訪で過ごした天龍道人

天龍道人「葡萄図」

天龍道人(1718-1810)は、肥前鹿島藩の庶子に生まれたが家老の子として育てられ、14歳の時に藩主の継嗣候補となったがそれもかなわず、藩主の逆鱗に触れて一家は改易浪人として配処に移された。15歳頃に肥前安国寺の泰嶽和尚のもとで仏門に入り、その後長崎に出て医学を学ぶとともに、絵を南蘋派の熊代熊斐に学んだ。19歳頃には京都に出て萬里小路韶房の猶子となって善明院を名乗り、青蓮院宮尊英法親王に任えた。その後、竹内式部ら勤王の志士と交わり、さまざまな変名を使って、王政復古、倒幕運動に加わることになる。

41歳の時、肥前代表の龍造寺主膳と称して竹内式部、山県大弐、藤井右門らと王政復古を画策したが失敗、竹内式部は捕らえられたが、道人は逃れて甲斐の山県大弐のもとに隠れた。さらに、50歳の時に、今度は郷藩士・成瀬翁と称して大弐事件に加わったが、これも失敗して信州諏訪に逃れた。この件で山県大弐、藤井右門は死罪となり、竹内式部も島流しの途中に死んだ。

諏訪で生き延びた道人は、以後、身分や経歴を隠してこの地に定住し、諏訪湖が天龍川の源になることから「天龍道人」と号して画作に専念した。最も得意としたのは、葡萄と鷹の絵で、葡萄の絵は全作品の半数以上を占めており、「葡萄和尚」とも呼ばれた。甲斐にいた時に葡萄の写生をし、下諏訪の鷹匠の家に寄寓していた時に鷹を写生したと伝わっている。

波乱に富んだ前半生に比べて、諏訪での後半生は平穏自適の日々で、平素は閑居し、静座して思索にふけり、想が浮かべば立って絵を描き、詩を作ったという。諏訪高島藩からも厚遇されており、高遠、伊那などにも足をのばして作画している。90歳の時に眼を患い、しばらく文筆から離れ、92歳で足を病み、それからは「折脚山」と称していたが、文化7年、93歳で死去した。

ほかに諏訪の近世画人としては、狩野派を学んだ高島藩三代藩主・諏訪忠晴(1639-1695)、五代藩主・諏訪忠林(1703-1770)をはじめ、俳画をよくした藤森素檗(1758-1821)、谷文晁に学んだ岩本琴斎(1776-1849)、医業のかたわら絵を描いた矢島鑑湖(1807-1868)、諏訪俳壇の中心人物として活躍した岩波其残(1815-1894)らがいる。

天龍道人「鷹図」

天龍道人(1718-1810)てんりゅう・どうじん
天龍道人ら肥前佐賀の南画家と岸派

藤森素檗(1758-1821)ふじもり・そばく
宝暦8年諏訪郡下桑原町(現在の諏訪市)生まれ。生家は代々油商を営む素封家だった。初号は素麦、後年出家剃髪して福庵とも号した。藤森文輔に俳諧を学び、のちに加藤暁台の門に入り、暁台没後は井上士朗についた。俳画もよくし、蕪村や巣兆のものに学んだとされるが、独自の風をなしていた。文政4年、64歳で死去した。

岩本琴斎(1776-1849)いわもと・きんさい
安永5年諏訪郡北真志野村(現在の諏訪市)生まれ。名は正方、通称は俊蔵。洞雲とも号した。七代藩主・忠粛、八代藩主・忠恕に仕え勘定方小算用をつとめた。絵は江戸詰めの時に谷文晁の高弟・岡田閑林について学び、のちに谷文晁に師事した。文政10年、忠恕の命を受けて、城内に新築する能舞台の鏡板の絵を描くために江戸に出て、観世流宗家・観世太夫家の能舞台鏡板の図をみとって帰り「老松の絵」を完成させた。温泉寺に残っている。このほか、城内の襖・屏風などを描いた。嘉永2年、74歳で死去した。

矢島鑑湖(1807-1868)やじま・かんこ
文化4年諏訪郡真志野村(現在の諏訪市)生まれ。生家は代々武家で、父の春意は藩医・小寺維明について医学を修め、真志野に招かれて医業を営んだ。鑑湖も医を生業とし、医業のかたわら絵を越後の嵐溪に学び、また、大岡雲峰、谷文晁らにも教えを受けた。慶応4年、61歳で死去した。

岩波其残(1815-1894)いわなみ・きざん
文化12年諏訪郡文出村(現在の諏訪市)生まれ。元は山田氏、通称は鉄三。俳号に其残、蓼妙、再庵、天普、芒老人、雪散屋などがある。父親は上諏訪仲町で旅館兼質屋「大林屋」を営んでいたが失敗し、文出村に帰り農業を手がけた。其残は19歳で家督を継いだが、農耕を好まず、28歳の時に弟に家督を譲り、俳諧、絵画に専念し、諏訪俳壇の中心人物として活躍した。明治27年、80歳で死去した。

長野(01)-画人伝・INDEX

文献:文人画家の譜 大維から鉄斎まで、諏訪市史 中巻(近世)、豊田村誌 下巻、長野県美術全集 第1巻、信州諏訪の美術(絵画編)、信州の美術、信州の南画・文人画、長野県美術大事典