江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

東京で学んだ宮崎県の洋画家

山田新一「冬着のアーニャ」

宮崎から新しい美術を求めて東京に向かった画家としては、日本画では山内多門益田玉城大野重幸根井南華があげられる。洋画では塩月桃甫が、東京美術学校に学び、その後台湾に渡っている。塩月に続いて東京をめざした洋画家としては、山田新一、鱸利彦、出水勝利、末原晴人、岩下資治、小野彦三郎、落合ランらがいる。

山田新一は、東京美術学校卒業後朝鮮に渡ったが、戦後は京都に住み、日展、光風会の重鎮として活躍した。千葉県出身で、幼少時を宮崎で過ごし鱸利彦は、東京美術学校で学び、卒業後は旺玄社、二科会、一陽会などに所属したが、いずれも退会して以後は無所属として個展を中心に作品を発表、一貫して穏健な自然美を追求した。出水勝利は、東京美術学校卒業後は宮崎で教職につき、宮崎県美術協会の設立に参加、会長として美術団体の育成と会の運営に尽力した。

日南高校に勤務したのち千葉県に移り住んだ岩下資治は、一水会会員として活動、一貫して千葉県の花畑やそこで働く女性を明るい色彩で描いた。末原晴人は、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけ、具象だけでなく抽象も描くなど幅広い画風を展開した。小野彦三郎は、帝国美術学校に学んだ後、創元会、日展で活躍、のちに渡欧し、独自の大和絵風の風景画を完成させた。

山田新一(1899-1991)
明治32年台北市生まれ。父の転勤により青森、小樽、東京、栃木を転々とした後、旧制都城中学校に入学、図画教師・野村房雄に絵画を学んだ。大正6年に上京して川端画学校に入学、佐伯祐三らと交友した。翌年東京美術学校西洋画科に入学、藤島武二に師事した。大正12年から京城に移住し、高等学校で教職についた。昭和3年に渡欧し、パリでアマン・ジャンに師事。帝展、朝鮮美術展で入選、受賞を重ね、昭和16年朝鮮総督から美術功労者として表彰された。終戦直後はGHQからの依頼で戦争記録画の収集を行なった。戦後は京都に住み、日展、光風会展に出品、日展参与、光風会名誉会員をつとめた。平成3年、92歳で死去した。

鱸利彦(1894-1993)
明治27年千葉県生まれ。明治29年に宮崎市に移住し、幼年期を宮崎で過ごした。明治45年旧制県立宮崎中学校を卒業。大正2年東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝らに師事した。大正7年同校を卒業し、昭和5年パリに2年間留学した。昭和21年二科会会員になった。昭和25年に共立女子大学教授に就任。昭和30年に二科会を退会し、一陽会を創立したが、昭和40年に同会を退会し、以後無職として活動、個展を主として意欲的に作品発表を行なった。平成2年には宮崎県文化賞を受賞。平成5年、98歳で死去した。

出水勝利(1906-1990)
明治39年南那珂郡北郷町生まれ。旧制県立飫肥中学校で柏原覚太郎に指導を受け、東京美術学校に進んだ。同校卒業後は旧制県立飫肥中学校をはじめ、兵庫県立伊丹高等女学校、兵庫県師範学校、昭和21年には宮崎師範学校につとめ、昭和24年宮崎大学学芸学部教授となった。また、宮崎県美術協会の設立に参加し、昭和45年に会長に就任、美術団体の育成と会の運営に尽力した。昭和62年に宮崎県文化賞を受賞。平成2年、84歳で死去した。

末原晴人(1907-1990)
明治40年大阪市生まれ。明治43年父の故郷である都城市に転居した。大正15年県立都城商業学校を卒業し上京。同舟舎洋画研究所、川端画学校に入り、藤島武二にデッサンを学んだ。昭和8年から都城市立明道小学校教員をはじめ、旧制都城中学校、泉ヶ丘高校、宮崎南高校、宮崎女子短期大学で教職についた。昭和26年日展、光風会展に初入選し、以後両展に出品を続け、昭和35年光風会会員となった。昭和40、41、47年に渡欧、白を基調とする「地中海シリーズ」を手がけた。昭和41年宮崎県文化賞を受賞した。平成2年、83歳で死去した。

岩下資治(1908-1989)
明治41年串間市生まれ。旧制県立飫肥中学校卒業後、東京美術学校図画師範科に進んだ。昭和4年同校卒業、二科展に入選し、昭和16年まで出品を続けた。昭和18年まで千葉県で教師をつとめた。終戦後帰郷し、県立日南高校で昭和14年に退職するまで美術を教えた。その間、県展(現宮日展)にも出品、奨励賞を受賞した。昭和45年に再上京し、その年から一水会展に出品を続け、昭和52年会員となった。平成元年、81歳で死去した。

小野彦三郎(1912-1971)
明治45年小林市生まれ。昭和7年旧制県立小林中学校を卒業。はじめ川端画学校で学び、のちに帝国美術学校に入学、昭和13年同校を卒業した。大久保作次郎に師事し、昭和17年文展に初入選、同年創元展で創元賞を受賞した。昭和24年には日展で特選となった。昭和28年から2年間政府留学生として渡仏し、昭和30年に帰国した。昭和32年に創元会を退会し、翌33年に十一会の結成に参加し創立会員となった。その後、十一会も脱会して無所属として活動、毎年個展を開催した。昭和40年と41年には県展(現宮日展)の審査員をつとめた。昭和46年、59歳で死去した。

宮崎(28)-画人伝・INDEX

文献:宮崎の洋画100年展、郷土作家美術コレクション展、都城美術史、都城 美の足跡、宮崎近代美術創成期の美術家、東京美術学校に学んだ郷土の画家