延岡藩の最初の御用絵師・佐藤周鱗斎は狩野派だったが、その後の延岡の絵師は、周鱗斎の子の佐藤竹皐、孫の佐藤小皐をはじめ、そのほとんどが南画を学んでいる。延岡藩が南画王国だった豊後に近く、また飛び地もあったことから、その影響があったことも考えられる。
延岡の南画家たちは、谷文晁の流れを汲むものが多く、江戸に出て谷文晁の弟子や孫弟子に直接師事したものもいれば、修業して帰郷したものに宮崎県内で師事したものもおり、その流れは昭和まで続いた。主な画家としては、佐藤竹皐・小皐親子をはじめ、岡部南圃、塩月秋圃、鈴木月谷、小泉二山らがいる。
江戸後期の延岡画壇の第一人者・岡部南圃は、修業した時期や年齢は定かではないが、江戸で岡本秋暉に花鳥を学び、春木南湖に山水を学んだ。「延岡先賢伝」によれば、南圃の絵は、写生に意を用い、洋画の重ね塗りを思わせるところがあり、南画、北画、円山派を折衷した画風で、谷文晁、渡辺崋山らの影響を思わせるとされている。
岡部南圃(1807-1873)
文化4年生まれ。岡部秀七の四男。名は恒之、字は藤平。別号に介甫、南甫がある。江戸に出て佐藤竹皐と同じく岡本秋暉に師事して花鳥画を学び、春木南湖について山水画を学んだ。帰郷後は御画師として藩主・内藤政義につかえ、現在の延岡小学校東前の角あたりに住んでいた。代表作として「百花百鳥図」「寿老人」「名花十支の図」などが残っており、没後84年目には延岡で初の遺作展が開催された。門人に鈴木月谷、塩月秋圃、清水蓮溪、佐藤南巌がいる。明治6年、67歳で死去した。
鈴木月谷(1835-1906)
天保6年延岡生まれ。名は迂一、のちに厚。別号に霞峰がある。嘉永6年から岡部南圃に学び、江戸に出て岡本秋暉、福田半香、高久靄崖に師事した。のちに延岡に帰郷して、内国絵画共進会の第1回展、第2回展に出品した。明治31年に宮崎女学校図画教師嘱託となったのを機に宮崎市に移住、明治33年からは県立宮崎女学校嘱託となった。門人に小泉二山、河野立巌、佐野徳輝、根井南華がいる。明治39年、73歳で死去した。
塩月秋圃(不明-不明)
延岡生まれ。名は仁平。岡部南圃に学び、人物画や花鳥画を得意とした。晩年は延岡市内で凧や幟の絵を描いたという。71歳の時の作品が残されているが生没年は不明。
宮崎(11)-画人伝・INDEX
文献:延岡先賢伝、延岡先賢遺作集、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展