江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

狩野常信門下の四天王のひとり・永井慶竺

永井慶竺「百猿図」宮之城町歴史研修センター寄託(個人蔵)

都城には竹之下信成と同時代の絵師として永井実益(1637-1696)がいた。系図によると実益の父・利挙は二度結婚しており、一人は能賢の弟子・湛慶の娘で、もう一人は白谷卜斎の娘であり、実益は白谷卜斎の縁戚にあたる。実益の子・永井慶竺(1685-不明)は、はじめ津曲朴栄に学び、14歳の時に朴栄に呼ばれて江戸に出て狩野常信に師事し、新井寒竹、長谷川常時、大石古閑とともに、常信門下の四天王と称された。

数々の秀作を残しており、「朝鮮の役図屏風」は享保4年、都城領主島津家19代久龍の命によって鹿児島にある本画を模写したものであり、木村探元の「島津義弘公朝鮮征伐図屏風」がその本画とみられている。また、慶竺が模写したと伝えられる「高麗虎狩図屏風」も都城市の旧家に残っている。都城の欇護寺が保管している「釈迦涅槃像」は天和2年の作で、島津藩の吉貴に仕える前の作といわれる。「黄瀬川の対面図」「百猿図」なども代表作である。

永井慶竺(1685-不明)
貞享2年生まれ。永井実益の次男。名は常喜、はじめ実次ともいった。通称は熊千代丸、善左衛門。初号は慶竹、のちに慶竺とした。元禄11年、14歳の時に津曲朴栄に呼ばれて江戸に出て朴栄と同じく狩野常信に師事した。新井寒竹常償、長谷川養辰常時、大石古閑常得らとともに、常信門下の四天王のひとりに数えられた。10年後に帰郷し、宝永5年に鹿児島藩主島津家21代吉貴に絵師として召し抱えられ谷山郷士となった。弟子に坂元常有、川井田正蔵がいる。

永井実益(1637-1696)
寛永14年生まれ。都城の家臣。名は利修、実寿。通称は善吉郎、善右衛門。別号に等慶がある。白谷卜斎の縁戚にあたる。永井慶竺の父。師は不明だが、狩野派に学んだと考えられる。元禄9年、60歳で死去した。

宮崎(3)-画人伝・INDEX

文献:都城市史、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展、かごしま美の先人たち-薩摩画壇四百年の流れ