宮城県と洋画との関わりについては、明治10年に宮城県上等裁判所検事として仙台に赴任してきた床次正精が、梶原昇と洋画を研究したことが記録に残っている。また、明治13年に宮城県博物会で一等賞碑を受賞した高橋由一が、翌年県の委嘱で「宮城県庁門前図」を制作、ほかにも「松島五大堂図」「松島図」などを描いている。
宮城県出身の洋画家としては、亘理町に生まれ北海道に移住した高橋勝蔵が、渡米して帰国後静物画で文展に入選した。また、若くして上京した布施淡は、小山正太郎の不同舎で洋画を学び、その後東北学院で絵画を教えたが、29歳で早世した。
渡辺亮輔や真山孝治はそれぞれ東京美術学校や白馬会研究所で本格的に絵画を学び、外光派風の作品で初期の文展に入選。同じく白馬会系の太田美方も、仙台で積極的に展覧会などを開催して黒田清輝らの作品を展示して洋画の普及をはかった。このような活動を通して、明治末になると宮城県においても徐々に洋画を手がける者が増えていった。
高橋由一(1828-1894)たかはし・ゆいち
文政11年江戸生まれ。近代洋画の開拓者として名高い。文久2年幕府画学局に入って川上冬崖に師事、ついで英国人チャールズ・ワーグマンに油彩画法を学んだ。慶応3年中国に渡り明治維新後大学南校の教授をつとめた。明治6年日本橋浜町に私塾天絵楼を設立し、原田直次郎らを育てた。明治27年、67歳で死去した。
布施淡(1873-1901)ふせ・あわし
明治6年津山町柳津生まれ。小山正太郎の不同舎に学んだ後、明治26年東北学院の教壇に立ち、絵画を教えた。この時に同僚に島崎藤村がいて共同生活を送っていた。長男の信太郎、二男の悌次郎も画家として活躍した。明治34年、29歳で死去した。
真山孝治(1882-1981)まやま・こうじ
明治15年岩手県室根町折壁生まれ。遠藤速雄に私淑。白馬会研究所で油彩画を学んだ。文展と白馬会に出品。第3回文展で褒賞受賞。一時満鉄の宣伝部に勤務し、のちに渡欧した。戦後は多賀城に居住し後進を指導した。昭和56年、100歳で死去した。
太田美方(1871-1943)おおた・びほう
明治4年仙台市生まれ。山形県の画家・太田霞岳の子。本名は可一。はじめは日本画を描いたが、明治30年代に白馬会に学び洋画に転じた。明治38年にはパレット画会を主催。翌年から白馬会の作家の作品も含めた東北洋画展覧会を数回開催した。昭和18年、72歳で死去した。
宮城(20)-画人伝・INDEX
文献:仙台市史特別編3(美術工芸)、仙台画人伝