江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

仙台藩最初の御用絵師・佐久間左京

松島瑞巌寺「松孔雀図」重文
松島瑞巌寺に残る障壁画は、元和6年から3年間かけて制作されたもので、桃山美術の典型的な様式を示している。室中孔雀間・仏間は佐久間左京が、上段間・文王間は長谷川等胤が、鷹間は左京の門人九郎太が、墨絵間は吉備幸益が分担して描いたと伝わっている。

仙台藩国元の御用絵師は、記録によると「手前絵師」と称されており、その最初の絵師が狩野左京である。左京は、京都の狩野派のひとりとして活躍していた青年時代に仙台へ招聘され、藩最初の御用絵師となった。

仙台開府においては、仙台城にはじまり、大崎八幡神社、仙台若林城などの主要作事にほとんど従事し、美術における桃山様式の仙台への導入に主要な役割を果たした。また、大坂夏の陣に出陣するなど武人としても活躍している。

この家系は、のちに姓を佐久間と改め、二代目の玄徳、三代目友徳へと引き継がれ、以後も藩御用絵師の中軸となるはずだったが、友徳の跡を継いだ養子の四代目・洞巌が一時家禄没収や追放の処分を受け、さらに五代目の如琢もしくは六代目の如節の代にも一時期、家禄を失ったと伝わっている。

佐久間左京(1581-1657)さくま・さきょう
天正9年生まれ。名は吉次、字は長三郎、別号に修理がある。尾州の人。伊達政宗が秀吉に従って伏見城にいる時、政宗の家臣・今村日向の義弟に絵をよくするものがいるということで召し抱えられ、仙台藩で最初の御用絵師となった。仙台城本丸、松島瑞巌寺、大崎八幡神社などの障壁画を描いた。明暦3年、77歳で死去した。

佐久間玄徳(1607-1669)さくま・げんとく
慶長12年生まれ。佐久間左京の子。名は吉重、字は荘三郎、掃部又源左衛門と称した。30歳の時に玄徳と称し、法橋に叙せられ、有隣と号して家業を継ぎ、仙台藩御用絵師となった。二代忠宗、三代綱宗に仕えた。寛文9年、63歳で死去した。

佐久間友徳(1633-1688)さくま・ゆうとく
寛永10年生まれ。佐久間玄徳の子。名は吉次、字は虎之助、通称は友徳。不必軒と号した。23歳で法橋に叙せられ、二代忠宗、三代綱宗に仕えた。子がいなかったので、世臣である新田親重の子を養子として佐久間家を継がせた。これが佐久間洞巌である。元禄元年、56歳で死去した。

宮城(1)-画人伝・INDEX

文献:仙台藩の絵師、仙台画人伝、仙台市史通史編4(近世2)