長沢蘆雪「虎図襖」(部分)重文 和歌山・無量寺
長沢蘆雪(1754-1799)は、丹波国篠山(現在の兵庫県篠山市)に生まれた。父は篠山藩主・青山家の家臣で、その後、山城国(京都府)の淀藩主・稲葉丹後守の臣下となった上杉彦右衛門とされる。蘆雪が父と異なる長沢姓を称した理由は不明で、出自についても異説がある。
その後、京都に出て円山応挙の門に入ったが、何歳頃入門したかなどは不明で、それ以前に狩野派の鶴沢探索に学んだという説もある。応挙のもとでは、禅の世界に傾倒し、独自の画風への芽生えも見せながら、高い技術と感性を持って応挙風の作品を描いていたと思われる。
画家としての明確な足跡がわかる最初は、25歳の時に描いた「東山名所図屏風」で、画中に応挙の家で描いた旨が記されている。また、天明2年に刊行された『平安人物志』の画家の部に蘆雪の名前が載っていることから、遅くとも29歳の時には京都で画家として認められる活動をしていたことになる。
画業の転機となったのは、33歳の時の紀南への出向だと考えられる。天明6年、蘆雪は、応挙の名代として串本の無量寺へ応挙の絵を携えて紀南に向かい、同年末頃から翌年2月中旬まで滞在した。短い滞在期間だったが、京都とは異なる環境のなかで精力的に活動し、無量寺や草堂寺、成就寺などに多数の障壁画を描いている。
なかでも、無量寺に残る「龍虎図襖」(掲載作品)は、大胆な構図やダイナミックな筆致で描かれた傑作で、意表をつくような空間構成に個性が際立っている。同時代に活躍し、新規を極めた伊藤若冲や曾我蕭白と同様、蘆雪もまた、蘆雪流の奇想を打ち出したとも解釈できる。
紀南から京都に戻った蘆雪は、天明8年の天明の大火に遭い、その影響かわからないが奈良に赴き、薬師寺に襖絵を残している。また、寛政2年の御所造営にも参加し、兵庫の大乗寺では「群猿図襖」を担当するなど各地で活動していたが、寛政11年、大坂に出かけている最中、46歳で急死した。
蘆雪については様々な逸話が残っている。画才に恵まれた反面、傲慢な性格だったとも伝わっている。死因については毒殺された、あるいは自害したという伝承もある。それらの出所は、相見香雨が著した『蘆雪物語』とみられ、同書には、応挙に3度破門されたとか、独楽が片目に当たり片目が見えなかったなどのエピソードも記されているが、その真偽ははっきりとは分かっていない。
長沢蘆雪(1754-1799)ながさわ・ろせつ
宝暦4年丹波国篠山(現在の兵庫県篠山市)生まれ。上杉彦右衛門の子。父はのちに山城国淀藩稲葉家に仕え、和左衛門に改名したと蘆雪自身が述べている。名は魚、字は氷計、号は引裾、手緝。円山応挙に師事し、源琦とともに応挙門下の双璧と謳われた。天明6年応挙の名代として串本の無量寺へ応挙の障壁画を携えていき、自身も紀南の多くの寺で筆を揮った。天明8年御所造営に参加。寛政6年広島に滞在し「宮島八景図」など制作。寛政7年大乗寺障壁画に参加。寛政11年、大坂において46歳で死去した。
京都(114)-画人伝・INDEX
文献:もっと知りたい長沢蘆雪、円山応挙から近代京都画壇、日本絵画名作101選、日本美術全集索引、原色日本の美術27在外美術(絵画)、美のワンダーランド十五人の京絵師、奇想の画家たち、プライスコレクション若冲と江戸絵画、大乗寺