幕末から明治維新期には新しい日本を目指した勤王の志士たちが多く登場した。彼らは学術、武術を学ぶとともに多くの書画を残している。土佐勤王党の盟主だった武市瑞山(1829-1865)は、徳弘董斎に南画を学び、弘瀬洞意(絵金)にも師事して画才を発揮した。雅号ははじめ吹山、のちに瑞山とし、美人画や獄中で描いた自画像などが残っている。河田小龍の画学塾・墨雲洞では、海援隊で活躍する長岡謙吉(1834-1872)や新宮馬之助(1838-1886)らが学んだ。新宮馬之助は小龍の一字をもらい「小峯」と号して絵馬などを残している。
武市瑞山(1829-1865)
文政12年生まれ。土佐勤王党首領。通称は半平太、名は小楯。土佐藩郷士。文久元年土佐勤王党を組織し、文久2年参政・吉田東洋を暗殺。藩論を攘夷に転換し、諸藩と交渉した。文久3年8月18日の政変後、藩論は公武合体に傾き、投獄、切腹を命じられ、慶応元年、36歳で死去した。
坂本龍馬(1835-1867)
天保6年生まれ。名は直柔。土佐藩郷士。土佐勤王党に加盟。江戸に出て勝海舟に入門し、航海術を学び、長崎に商社を設立した(のちに海援隊に発展)。西郷、小松、木戸らと計り、薩長同盟を策し、大政奉還に尽力した。京都の近江屋で中岡慎太郎と共に幕府見廻組に殺害された。変名は才谷梅太郎。慶応3年、33歳で死去した。
長岡謙吉(1834-1872)
天保5年生まれ。海援隊士。名は敦美、初名は恂。初称は今井純正。父は医師・今井孝順。大坂・江戸で医術と文学を修め、安政6年に長崎に行き西洋医術を学び、シーボルトの子に日本語を教えたという。文久元年にはキリシタン信仰の嫌疑で帰国、一時布師田川以東追放となった。のちに赦免され、長崎に再遊し、慶応3年海援隊に参加し、同年『閑愁録』を刊行した。大政奉還建白書の起草にも参加した。明治元年藤沢南岳を説得して高松藩恭順の道を開き、維新後、塩飽諸島の開発と管理に務めた。三河県知事をはじめ、諸官を経て、明治5年工部省に出仕、同年、39歳で死去した。
間崎滄浪(1834-1863)
天保5年生まれ。土佐勤王党員。名は則弘、字は士毅。通称は哲馬。土佐藩士。江戸の安積艮斎門の塾頭を務め、帰国後は開塾して志士の育成に尽力。文久元年土佐勤王党に加盟した。藩政を尊王攘夷へ転換しようとして、平井収二郎らとともに青蓮院宮(中川宮)から令旨を得て画策したため、山内容堂の怒りを買い、切腹に命じられ、文久3年、30歳で死去した。
中岡慎太郎(1838-1867)
天保9年生まれ。通称は慎太郎。名は道正。号は迂山。詩文をよくし、武術に達し、薩長両藩の提携を計り倒幕に奔走した。また、海援隊を結成した。京都で幕吏らに襲われ、坂本龍馬とともに暗殺された。 慶応3年、30歳で死去した。
新宮馬之助(1838-1886)
天保9年生まれ。旧姓は寺内。名は駿あるいは維駿、字は千里。号は小峯。土佐国香美郡新宮村の小農の子。1853年河田小龍宅に寄宿し、画を学ぶかたわら読書、撃剣、水練を好んだ。本丁二丁目旅籠屋兼焼継商「布屋」の伯母の家を継ごうとして、焼継修行のため上国。この時、新宮次郎と称した。勝海舟に入門後、寺内庄左衛門・民谷某などと隠称し、ついに新宮駟と改称した。 明治19年、49歳で死去した。
高知(19)-画人伝・INDEX
文献:歴史と美術-維新の群像-