近世土佐を代表する南画家として中山高陽(1717-1780)がいる。高陽は日本南画の草創期、京都で彭城百川に画を学んだのち、42歳の時に狩野派が全盛を誇る江戸に出て、詩書画の世界に独自の境地を切り開き、宝暦から安永期の江戸を代表する画人、文人として知られるようになった。画題は人物、山水、花鳥と幅広く取り組み、南宗画のみならず多くの画派から学ぼうとした。こうした高陽の学習態度は、のちに谷文晁によって確立される江戸南画にも大きな影響を与えたと考えられる。土佐では高陽の門にその技を引き継ぐほどの名家は出なかったが、江戸ではその流れを汲む谷文晁を筆頭に、広瀬臺山、雲室、渡辺崋山、春木南湖らの南画家が続々と登場して江戸画壇をにぎわした。土佐の門人としては、甥で後を継いだ中山秀種をはじめ、皆田高渚、岩川西臺、上野江陵、山内南唐、松田生白、中山思愿、馬淵鏡川、北野鞠塢らがいる。
中山高陽(1717-1780)
享保2年生まれ。通称は清右衛門。別号に鎌川、江竹、酔墨山人などがある。画を彭城百川に、書を関鳳岡に学んだ。宝暦9年に江戸に出て、詩書画ともに巧みと評価された。文人墨客との交流も広く、詩人・井上金峨、書家・沢田東江と親交を結び、高陽の画を加えて当時の三絶と称された。安永4年、画論集『画譚鶏助』を刊行し、絵画についての啓蒙書として後の時代にも広く読まれた。安永9年、64歳で死去した。
中山秀種(1745-1808)
延享2年高知堺町生まれ。諱は秀種、字は思愿、幼名は八五郎、のちに利右衛門、七助と改めた。中山高陽の兄・忠七元守の二男。幼いころから画を好み、叔父の高陽に学び、高陽没後は後を継いだ。文化5年、64歳で死去した。
皆田高渚(不明-不明)
名は利布、字は子平、通称は多七。別号に新亭、国香斎などがある。土佐藩士。唐人町に住んでいた。画を中山高陽に学び、師の画法をよく伝えている。
岩川西臺(1753-1795)
姓は源、諱は処和、字は太初、通称は荘助。別号に雲峰がある。画を中山高陽に学んだ。安永2年、43歳で死去した。
上野江陵(不明-不明)
名は亮。土佐藩士。大川筋に住んでいた。詩書画を中山高陽に学んだ。高陽没後は、伊勢の細合半斎を師とし、また大坂の木村蒹葭堂、京都の池大雅とも交友した。
高知(10)-画人伝・INDEX