江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人

高松を代表する文豪・菊池寛(1888-1948)は、19歳で郷里高松を離れ上京、やがて小説家・劇作家として文壇で活躍する一方、文藝春秋社を設立、実業家としても成功をおさめた。芥川賞、直木賞を創設したことでも知られる。競馬や麻雀などに没頭しその道を究め、衆議院選挙にも立候補するなど、多才な人物だった。

菊池寛と同じ時代を生きた香川の文人としては、沖縄の紅型研究をはじめ型絵染一筋に歩いた型絵染の人間国宝・鎌倉芳太郎(1898-1983)、江戸明治文化研究家で新聞雑誌の収集研究家でもある宮武外骨(1867-1955)、高松張り子人形制作者・宮内フサ(1883-1985)、政治学者で評論家・歌人としても活躍した南原繁(1889-1974)、登山家・紀行文家で浮世絵版画の研究・蒐集家でもある小島烏水(1873-1948)らがいる。

書画をたしなんだ文人としては、中国書画を探求し文人として生きた長尾雨山(1864-1942)、仏教の聖地に壁画を描いた野生司香雪(1885-1973)がいる。

長尾雨山(1864-1942)ながお・うざん
元治元年高松生まれ。高松藩士・長尾柏四郎の長男。15歳で父を失い、古高松村の揚硯堂に身を寄せて、揚家の蔵書に目を通した。20歳で上京し、東京文科大学古典科に入って漢書を学んだ。明治21年に卒業すると、学習院、東京美術学校、第五高等学校の教授を歴任した。その後、東京に戻り東京高等師範学校教授のかたわら、文部省図書編纂官をつとめ、東京帝国大学の講師となった。同35年、退職して上海に渡り、商務印書館編訳部員となり、その後、12年間にわたり中国各地を歴遊、昭和16年に日本に帰った。帰国後は京都に住み、著述のかたわら門弟を教えた。人に求められると書画の筆をとり、書画論を講じた。書画、金石などの鑑定にも詳しかった。昭和17年、79歳で死去した。

野生司香雪(1885-1973)のうす・こうせつ
明治18年香川郡檀紙村生まれ。本名は述太。父は浄土真宗の僧侶。香川県工芸高校を卒業後、東京美術学校日本画科に進んだ。大正6年から約1年間インドに滞在し、寺院の壁画模写に参加、その後、共に参加していた桐谷洗鱗の急死をうけて、初転法輪寺に釈迦の一代記を描くため、昭和7年に再びインドに渡った。壁画は11年に完成し、壁画の下絵は同25年、永平寺に献納された。帰国後は、長野善光寺雲上殿や埼玉名栗観音などの壁画を手掛け、郷里高松の法恩寺や、父が役僧をつとめた檀紙村の金乗寺にも襖絵を残している。画壇の表舞台には出ず、長野で文化人や高僧と交わり、文人的生活を送った。生涯インドと日本の交流の架け橋としての役割を担い、昭和48年、仏教協会より仏教美術賞を受け、同年、87歳で死去した。

香川(17)画人伝・INDEX

文献:近代香川の人物譜-菊池寛と同じ時代を生きた人々-