江戸末期の讃岐漆芸の祖・玉楮象谷(1806-1869)は、幼いころから家業である刀の鞘塗りを父に学び、京都に遊学した際には、多くの文人や芸術家と交流、書画はもとより幅広く美術工芸の分野に接し、従来の職人としての技術継承の域を越え、東南アジアなどからの技法輸入や研究、意匠の確立につとめた。その技術は高く評価され、高松藩九代藩主・松平頼恕、十代・頼胤、十一代・頼聰の厚い庇護のもと、宝蔵品の修理とともに種々の漆芸品を献上、今日の讃岐漆芸の基礎を確立していった。その漆工技法は、象谷の継承者によって伝統的に受け継がれていく一方で、明治になり近代化の風潮のなか、実用的な生活用品の制作へと移り変わり、工芸は産業としての役割を担うようになった。
玉楮象谷(1806-1869)たまかじ・ぞうこく
文化3年高松外磨屋町生まれ。本姓は藤川、名は為三、字は子成、通称は敬造。別号に蔵黒、紅花緑葉堂がある。父・藤川理右衛門に鞘塗りを学び、のちに存清・堆朱・蒟醤などの技法を深く研究し、独自の日本的な彫漆法を完成した。余技で蘭竹をよく描いた。明治2年、64歳で死去した。
玉楮拳石(1834頃-1882)たまかじ・きょせき
天保5年頃生まれ。名は琢。玉楮象谷の二男。彫刻を得意とし、画もよくした。明治15年、49歳で死去した。
玉楮雪堂(1837-1899)たまかじ・せつどう
天保8年高松生まれ。名は有禎、通称は為造。玉楮象谷の三男。別号に三生翁がある。父に漆芸を学び家業とした。きゅう漆・彫刻を得意とし、画もよくした。明治34年、63歳で死去した。
玉楮藤榭(1854頃-1881)たまかじ・とうしゃ
安政元年頃生まれ。通称は藤吉郎。別号に九江がある。玉楮象谷の四男。竹木の彫刻を得意とし、画もよくした。明治14年、28歳で死去した。
玉楮蔵谷(1878-1912)たまかじ・ぞうこく
明治11年高松生まれ。本名は倭太。玉楮蔵黒(槐庵)の二男。玉楮象谷の孫。象谷の直系で漆芸を家業とするものは蔵谷で途絶えた。3歳の時に父が死去し、漆芸は叔父の雪堂に学び、後に家督相続人として後を継いだ。讃岐彫りを得意とし、晩年には堆朱、堆黒などの彫漆にも優品を残している。大正元年、35歳で死去した。
石井磬堂(1877-1944)いしい・けいどう
明治10年高松市北亀井町生まれ。本名は清次。別号に汲古堂がある。幼いころから父に彫刻を学び、玉楮象谷以来の漆芸を研究し、研鑽を積んだ。高松市内町の讃岐彫の店「百花園」の職長格として活躍し、明治末から大正期にかけての讃岐漆芸界のなかでも特に傑出した彫師とされる。木彫を中心とした讃岐彫に多くの作品を残している。弟子には音丸耕堂、鎌田稼堂らがいる。昭和19年、68歳で死去した。
香川(15)-画人伝・INDEX